エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

古径と土牛

2013年12月22日 | ポエム
実は「ノアの小窓から」というブログで知ったのだけれど、古径と土牛二人の展覧会があるのを知った。
山種美術館の企画展である。

小林古径の生誕130年の企画、タイトルは「特別展・小林古径 生誕130年記念」だ。



日本画の奥深さに触れる一日であった。




同じ画題で描かれた小林古径と奥村土牛の作品 山種美術館 小林古径生誕130年記念 古径と土牛





奥村土牛《醍醐》昭和47年/奥村土牛《鳴門》昭和34年 山種美術館 小林古径生誕130年記念 古径と土牛




土牛の重厚さと古径の洒脱さと、いや決して一つの言葉では表しきれない迫力に触れたのであった。
音楽も好きだけれど、絵画も好きだ。
文学も好きだけれど、浮かれる日常も嫌いではない。

いろいろと手を染めてきたけれど、結局は「器用貧乏」なのかもしれない。
それでも良い。

さて、古径と土牛。
久しぶりに会った、土牛。
日本画の、潔い筆致。

岩絵具を、重ねて重厚な奥行きを表現する世界。
同時にまた、省略の美的概念の展開。

どれをとっても、感動させるのである。



山種美術館までは、恵比寿駅下車、駒沢通りを広尾方面に。
明治通りも横切り、どんどんダラダラ坂を登っていくと右側にある。



古径と土牛特別展は、明日までである。
一見してほしい展覧会である。






「漂える絵画のいのち胡粉かな」






上は、奥村土牛記念美術館。
下は、小林古径旧居、復元したものである。

色彩の、年月を経ても褪せない鮮やかさを堪能できるのは日本画の極致である。



       荒 野人

アランフェス協奏曲 を聴いている

2013年12月21日 | ポエム
雨の日が・・・だらだらと延長している。
冷たい雨だ。
午後三時半ごろには、練馬でもみぞれとなった。
初雪が降ったのである。

必要があって、外出したけれど手が悴(かじか)んだ。
帰宅して、直ぐに自室に籠った。

気分としては、少しばかり重かったのである。
そこで、村治佳織のギターを聴きたくなった。
一枚のCD、それはアランフェス協奏曲であった。


アランフェス協奏曲 Concierto de Aranjuez - Kaori Muraji 村治佳織



この曲を聴いて、次にノクターンを聴いた。
忽ち、晩秋の八ヶ岳の麓が脳裏に浮かんできた。







「葉の落ちる記憶の中の道を染む」







雨に濡れた枯すすきも良いものだ。
だがしかし、冷たさがひとしお身に沁みる。

大丈夫、石川PAの八王子ラーメンが味覚の記憶を引き出す。
玉葱の甘さが、口の中に蘇る。



やはり味覚こそが、記憶を蘇らせる特別な感覚である。



      荒 野人

氷雨

2013年12月20日 | ポエム
一日中氷雨が降った。
雪に変身する前の、冷たい雨である。



天気予報は、夜には雨になるとの事だったけれど深夜も暖かく、到底雪に変わる気配では無かった。
だがしかし、雨は冷たい。



外出は、遠慮した。
風などひいては堪らないからである。

部屋にこもり、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を聴いて時間を過ごした。
カラヤンの棒で、ベルリン・フィルを一枚繰り返して聴いた。
もう一枚は、である。


チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 カラヤン ベルリン・フィル



やはり、良い。
気分が素直になっていく。
悲愴になる訳ではないのである。







「雨だれの音目覚めさせ猛き冬」







これは烏瓜の実である。
縦長の丸い実である。

熟れきると赤くなって、ぱっくりと割れる。
それは毒々しいまでに赤いのである。



氷雨に濡れる山茶花である。
この写真で明らかだけれど、山茶花は先ず花びらを散らし、やがて蕊を落とす。

儚くも美しい花である。



真っ赤な、南天の葉。
見事なまでの赤である。



       荒 野人

雪の匂い

2013年12月19日 | ポエム
朝、玄関を開けた途端に鼻孔に流れ込んできた匂いがある。
雪の匂いだ。

湿ったような、それでいて乾燥した埃の芳しい匂いが融合したような匂いである。
友人に会って、今朝、雪の匂いがした!
と言ったら、笑われた。



夜半から、ミゾレになりやがて雪へと変わっていく天気予報。
匂いは、確かに雪だった。

だがしかし、雪は降らなかった。
関東平野では降らず、その周囲の高地では雪があった。

雨は、朝まで降り続いた。
雪の匂いは、消えている。





「雨音や雪の匂いのするひと夜」



今朝は、霧のように大気が濡れている。
その気配が、柔らかく暖かい。

暖かいけれど、角が立っている。



      荒 野人

満月に吠える

2013年12月18日 | ポエム
昨夜は満月であった。
けれども、淡い雲が掛って、月の周囲に暈が刷かれていた。



その暈は、妖しげであって疎ましい。
やはり月は鮮明を以て良しとしたい。
なんたってかぐや姫のおわすのであるのだから・・・。

昨日も今日も、下手な俳句を詠み続けている。
写生する心。
写生を尊ぶ気持ち。
写生して昂る思い。

とにかく、写生こそが原点と信じて詠み続けるのである。
イツカ、コペルニクス的な転換期が来よう。
その俳句の神様の啓示を待つのである。
写生と言っても、ぼくには、まだデッサン力が無い。

スケッチしているのである。
スケッチだから、いくらでも描ける。
ありのままに描けばよい・・・。

神様の啓示は降りて来るのだろうか?







「薄雲の暈のかかりし凍る月」







月に吠える。
萩原朔太郎の詩集だ。

アメリカ映画のキングコングだって、エンパイヤーステイト・ビルだったか、避雷針に掴まって月に吠えた。
狼だって月に吠えるし、犬ですら吠える。

ぼくも、裏声で月に吠えてみた。
なんだか、月を冒涜しているようで少しばかり赤らんだ。



      荒 野人