エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

薄命の俳人

2013年12月11日 | ポエム
薄命の俳人「住宅顕信」について触れたい。
以前、由利主宰が「俳句四季」に稿を寄せ紹介した。

死後、友人たちが上梓した句集の帯にこう書いてある。
「中卒後、調理師学校へ。22歳、得度。結婚、そして発病。4カ月後、長男誕生。離婚、病床で育児。25歳、永眠。」
波乱万丈の人生を駆け抜けた俳人である。
いやいや、疾風怒涛の人生なのだろう。



享年25。
俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。

尾崎放哉に心酔。
自由律俳句を詠んだ。

井泉水、放哉、山頭火の流れの中にあって、俳句を詠んだのである。



この俳人の事は、由利主宰からこの句集を貸して頂き知り合ったのである。
若くして、これほどの書をものしている。
早熟の天才と言ってよかろう。



旭川河畔に立つ顕信の句碑は、唯一残された彼の軌跡である。

「水滴の
 ひとつひとつが
 笑っている
 顔だ」

彼の御霊に応えられない野人である。



「ささやかな寒さに負ける」



と詠んでおきたい。
ぼくはまだ修行中である。
情けない。

次には、彼の句を紹介したいと思っている。



     荒 野人

夜の銀杏紅葉

2013年12月10日 | ポエム
世の中、浮かれ過ぎだ。
いつの間にか、警察国家へと変わりつつある日本が見えると言うのに。



日本の先行きの信号は、赤だ。



つい、二日前まで国会周辺で「反対!」と声を荒げていた人々は、いま何処に行ったのか?
強行採決の夜以降、その声は聞こえてこない。

だがしかし、昨日発表された世論調査の数字は、与党に厳しい。
さもありなん。

飽食の国、日本。
その象徴でもあるかのように「ふくら雀」が水田の周りを飛び交っている。



啄ばんでいるのは、何か?



空が怖くて地上に降り来ったのか?
雀も、膨らんで冬用意である。







「夜の銀杏黄色さ強く目立ちけり」







写生して句を読むのは、難しい。
五七五の韻律に収める難しさを痛感する。

だがしかし、その五七五こそ詠み込めば宇宙になる。
余韻すら感じる句になる。
人を感動させる句になる。

そうありたい。



     荒 野人

冬夕焼

2013年12月09日 | ポエム
冬の黄昏、夕焼はもの悲しさに溢れている。
今の木々は、その悲しさを助長する。



木々は、葉を落とし冬の乾燥に備える。
北国では、無駄に肌を晒さない行為こそが求められる。

冬夕焼は、寂寥感の極地である。



と同時に、変わった雲が空を彩る。
彩るから、時々空を見上げる事をお薦めする。







「冬夕焼枝細やかに現れり」







冬は木々の肢体が露わになる。
それがまた、哲学的且つ形而上的思惟を促すのである。

どうしても、概念的且つ観念的な句が産まれる。
それも、韻律の良い句になりかねない。



「野人!写生だよ!!!」
多くの先生方から、厳しい指摘を受けている。

上手い俳句は「人の心を打たない!」
上手い俳句は「人に感動を与えない!」

先生方のご指摘は、胸に響く。
よし、写生を一から始めよう・・・そう覚悟している。



      荒 野人

枇杷の花

2013年12月08日 | ポエム
枇杷の花が咲いている。
目立たない花である。
「粗にして野だが卑ではない」という城山三郎の小説がある。



枇杷の花は、正しくこの表現が当たっている。
見上げなければ、気付きもしない花なのである。
そこが良い。

因みに、花言葉もある。
「温和」「治癒」「あなたに打ち明ける」である。



枇杷は、たわわに実る。
街路にあって、別に市場に出回るわけではないから、この木にはたわわに実っている。
小さいけれど、甘い。



散歩しながら、一つずつ捥いで頂くことがある。
本当に甘いのである。

ところが、役所の外注で緑地帯の手入れをする業者が、なんの配慮も無く剪定することがある。
従って、木によっては実生が切り取られてしまっている。
これは哀しい。







「日暮時顔上げて見る枇杷の花」







枇杷の葉も実も、昔から漢方の生薬として人の役に立ってきた。

葉はアミグダリンやクエン酸などを多く含み、乾燥させてビワ茶とされる他、直接患部に貼るなど生薬(枇杷葉(びわよう))として用いられる。
葉の上にお灸を乗せる(温圧療法)とアミグダリンの鎮痛作用により神経痛に効果があるとされるのである。

甘い枇杷茶をお飲みになった経験がある筈である。
大切にしたい「枇杷の木」である。

「桃栗三年柿八年枇杷(は早くて)十三年」
と言われるのだから。



       荒 野人

マンデラ死す

2013年12月07日 | ポエム
南アメリカのマンデラ氏が亡くなった。

 黙祷

ぼくは、その情報に触れながら不覚にも落涙した。
青春時代に憧れた人物である。
いや、憧れというより尊敬していたと言うべきである。



ぼくの青春と云うページには、彼のプロファイルが刻印されている。

反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され27年間に渡り刑務所に収容された。
釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の副議長に就任。
その後、議長。
デクラークと共にアパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導き1994年に大統領に就任。
民族和解・協調政策を進めた。



第8代大統領となったのである。
この写真は、その就任式の日のワン・ショット。
第7代大統領・フレデリク・デクラーク(Frederik de Klerk)との握手である。

アパルトヘイト・・・。
隔離政策の総称であって、黒人差別の極地である。

アパルトヘイト(Apartheid)は、アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉である。
特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する人種隔離政策のことだ。





「マンデラというビッグネーム木守柿」






ぼくの内部で、寂寥と云う風が吹いている。
世界が、どんどん変わっていく。
ぼくの生きた時代が、どんどん終わっていく。

だがしかし、それで良いのだろう。

マンデラの大統領就任式での演説の言葉を、残しておこう。

「私たちは1つの契約を結んだ。黒人も白人も、全ての南アフリカ人が胸を張って歩くことができ、何も恐れることなく、人間としての尊厳についての不可侵の権利が保障される国──国内でも外国とも平和な『虹の国』を築こうという契約を」

マンデラは、南アの20世紀を代表する巨人である。
もう一人のアパルトヘイトと闘った巨人「スティーヴ・ビコ」とともに永遠に記憶されるであろう。



       荒 野人

追記;ピコは、1976年のソウェト蜂起を準備した。だがしかし、闘いの中で官憲によって虐殺された。
   黙祷を捧げる。