「六軒町の彫物がある~!」
六軒町とは地元でも有名な山車のひとつで、その囃子台の上で大きく羽を広げた鳳凰は全国でも珍しいと言われています。その山車の彫物の一部があるんです。すぐそこに。
ここは稲垣木彫刻所。私が館山の電話帳でたまたま見つけて訪問させて頂きました。
当主の稲垣さんは、地元で有名な彫物師の後藤家で修行し、現在は神社仏閣の彫物や山車の彫物の修理をしていらっしゃいます。
木彫には私も大変興味があり、実を言うと家具作りと迷ってしまうくらいの魅力があるのです、なんといっても私が木を使う仕事を選んだ原体験は、小学校の時の図工技術で扱った彫刻刀のあの「グリッ」ていう木を抉るときのえもいわれぬ感触だからです。
さらに地元の祭りで引き回される山車好きですから、こんな木彫の現場に足を踏み入れさせてもらえるなんて感動ものです。
しかも、目の前には六軒町の彫物、正確には昔稲垣さんが修理をされた以前の六軒町の鳳凰の横の羽の部分ですが、金色に塗られその何重にも流れる羽の動きは私も見覚えがあります。それがこんな間近で見られるとは!
話をさせて頂いてわりとすぐに結構ダメージのあるお言葉を頂いた。
「彫物師もなんでもそうだけど、やっぱり才能が大事じゃない」
彫物の下絵も自身で描く彫物師にとっては絵の能力も必要で、これはやっぱり小さな頃から絵を描くのがうまい奴はうまいし下手な奴は下手。
もちろんそれだけではないですが、けっしてこの才能の部分は小さくはないというお話です。
絵心についてはノーコメントの私としては少々ショックでした。
ですが、稲垣さんからは職人としてもっと大切なことをいろいろとお話いただきました。
ひとつは勉強すること。
当たり前ですが何事も勉強を怠らないことが大事。
「武士が彫られた山車が作られた時代は江戸末期や明治、ちょんまげに刀をぶら下げた侍を実際に見て育った人達と背広を着ている現代の彫物師では環境が違う。」
それを様々な文献や資料を頼りに調べることも必要だし、いろいろな本を読むことも大事だそうです。
美術集などはものによっては一万円くらいもする高価なものもありますが、
「一冊本を読んで何かひとつでもためになることがあればいいじゃない。そんなもんだよ」
というお話も頂きました。
そして究極的にはものづくりは、「いつ刀を置くか」が常に悩みどころ。
だそうです。
完璧と思ってしまったら職人終わりというならば、完璧にいいものを作るということが不可能だとしたら、いったいどこでその手を止めるのか。とても深い問題です。
現存する地元の山車のほとんどを手がけたと言ってもいい明治末期から大正にかけて活躍した「後藤利兵衛橘義信」という地元の名工がいらっしゃいます。
彼の甥で一緒に製作もした義房さんが言っておられたそうです。
「義信さんは常に『こんなんじゃ笑われちまう』と言っていた」と。
稲垣さんから見ても手間隙をかけすぎるくらいかけている作品にはそんな言葉を十分感じさせる力があるようです。
しかし一方でその手間は家計に影響を与えていた部分もあったようです。
昔船井総研の小山社長がおっしゃいました。「
人間は二度死ぬ」と。
ひとつは本人の寿命による死。
もうひとつが本人に伴う記憶がなくなることだと言います。
自分の奥さんや子供も亡くなり、自分のことを話す人や記憶を持っている人が誰もいなくなったとき二度目の死を迎えるそうです。
未来のことを考えたり名を残すということを目的にがんばっている芸術家は少ないとは思いますが、作品を残されてから100年近くが経とうとしている現在でも橘義信さんのお名前は光り輝いています。
名前を残る残らないは別として、今を精一杯生きたからこそ名前が残り、今がいい加減で未来にだけ名前が残るということはありえません。
さすればいずれにしても私達がやるべきことは自ずとわかってくるというものです。
稲垣さん、ありがとうございました。
六軒町とは地元でも有名な山車のひとつで、その囃子台の上で大きく羽を広げた鳳凰は全国でも珍しいと言われています。その山車の彫物の一部があるんです。すぐそこに。
ここは稲垣木彫刻所。私が館山の電話帳でたまたま見つけて訪問させて頂きました。
当主の稲垣さんは、地元で有名な彫物師の後藤家で修行し、現在は神社仏閣の彫物や山車の彫物の修理をしていらっしゃいます。
木彫には私も大変興味があり、実を言うと家具作りと迷ってしまうくらいの魅力があるのです、なんといっても私が木を使う仕事を選んだ原体験は、小学校の時の図工技術で扱った彫刻刀のあの「グリッ」ていう木を抉るときのえもいわれぬ感触だからです。
さらに地元の祭りで引き回される山車好きですから、こんな木彫の現場に足を踏み入れさせてもらえるなんて感動ものです。
しかも、目の前には六軒町の彫物、正確には昔稲垣さんが修理をされた以前の六軒町の鳳凰の横の羽の部分ですが、金色に塗られその何重にも流れる羽の動きは私も見覚えがあります。それがこんな間近で見られるとは!
話をさせて頂いてわりとすぐに結構ダメージのあるお言葉を頂いた。
「彫物師もなんでもそうだけど、やっぱり才能が大事じゃない」
彫物の下絵も自身で描く彫物師にとっては絵の能力も必要で、これはやっぱり小さな頃から絵を描くのがうまい奴はうまいし下手な奴は下手。
もちろんそれだけではないですが、けっしてこの才能の部分は小さくはないというお話です。
絵心についてはノーコメントの私としては少々ショックでした。
ですが、稲垣さんからは職人としてもっと大切なことをいろいろとお話いただきました。
ひとつは勉強すること。
当たり前ですが何事も勉強を怠らないことが大事。
「武士が彫られた山車が作られた時代は江戸末期や明治、ちょんまげに刀をぶら下げた侍を実際に見て育った人達と背広を着ている現代の彫物師では環境が違う。」
それを様々な文献や資料を頼りに調べることも必要だし、いろいろな本を読むことも大事だそうです。
美術集などはものによっては一万円くらいもする高価なものもありますが、
「一冊本を読んで何かひとつでもためになることがあればいいじゃない。そんなもんだよ」
というお話も頂きました。
そして究極的にはものづくりは、「いつ刀を置くか」が常に悩みどころ。
だそうです。
完璧と思ってしまったら職人終わりというならば、完璧にいいものを作るということが不可能だとしたら、いったいどこでその手を止めるのか。とても深い問題です。
現存する地元の山車のほとんどを手がけたと言ってもいい明治末期から大正にかけて活躍した「後藤利兵衛橘義信」という地元の名工がいらっしゃいます。
彼の甥で一緒に製作もした義房さんが言っておられたそうです。
「義信さんは常に『こんなんじゃ笑われちまう』と言っていた」と。
稲垣さんから見ても手間隙をかけすぎるくらいかけている作品にはそんな言葉を十分感じさせる力があるようです。
しかし一方でその手間は家計に影響を与えていた部分もあったようです。
昔船井総研の小山社長がおっしゃいました。「
人間は二度死ぬ」と。
ひとつは本人の寿命による死。
もうひとつが本人に伴う記憶がなくなることだと言います。
自分の奥さんや子供も亡くなり、自分のことを話す人や記憶を持っている人が誰もいなくなったとき二度目の死を迎えるそうです。
未来のことを考えたり名を残すということを目的にがんばっている芸術家は少ないとは思いますが、作品を残されてから100年近くが経とうとしている現在でも橘義信さんのお名前は光り輝いています。
名前を残る残らないは別として、今を精一杯生きたからこそ名前が残り、今がいい加減で未来にだけ名前が残るということはありえません。
さすればいずれにしても私達がやるべきことは自ずとわかってくるというものです。
稲垣さん、ありがとうございました。