自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★義経伝説とキリコ祭り

2017年10月14日 | ⇒トピック往来
  きのう(13日)ときょう、能登半島の先端・珠洲市の馬緤(まつなぎ)という集落で伝統の秋祭りがあり、大学の教員スタッフや学生5人でボランティアに出かけた。祭りのボランティアというのは、能登で「キリコ」と呼ぶ高さ12㍍にも及ぶ奉灯を動かす人手が足りず、集落に住む知人から「5、6人、祭りに来て」とSOSが入った。

  夜にキリコが沿道を動き始めると家々の人々は外に出てきて、巡行を嬉しそうに眺める。キリコは集落の誇り、あるいは自慢でもあるのだ。ところが、過疎化で若者の絶対数が足りない。でも、集落のシンボルでもあるキリコは出したい、そこでお声がかかるというわけだ。ただ、私自身がキリコ祭りが好きなので、還暦を過ぎても呼ばれればひょいひょいと出かける。

    この馬緤集落は、キリコに描かれる絵が面白い。源義経の「八艘跳び」の絵や義経と弁慶の絵=写真=なのだ。このキリコ絵の作者であり、祭りに誘ってくれた田中栄俊氏(元珠洲市教育長)が馬緤集落と義経伝説について語ってくれた。

  平氏と源氏が一戦を交えた壇ノ浦の戦い(1185年)で功名を上げた義経は京に帰り、敵方だった平時忠(たらいのときただ、平清盛の後妻である時子の弟)の娘を妻に迎える。義父である時忠は武士ではなく、「筆取り武士」と呼ばれた文官だったこともあり、死罪ではなく流刑となる。その配流先が能登だった。間もなくして、義経も兄・頼朝との仲違いで追われた。義経は奥州・平泉に逃げ延びる途中に加賀の安宅の関、そして能登に流された時忠を訪ね面会した。その場所が馬緤集落なのだ。

  義経の一行がここで滞在するため、馬を繋いだので、「マツナギ」という地名になり、その後「馬緤」の漢字が当てられた。馬に与えるエサがなかったので、海藻の神馬藻(ギバサ、ホンダワラの一種)を村の人が与えた。土地の人は義馬草(ぎばさ)と漢字を当てている。では、弁慶はどうか。「安宅の関」ほどの活躍はないが、能登では水路の石を弁慶が担いで脇によけたと言われる「弁慶石」がある。もう一人、常陸坊海尊は義経一行と別れて能登の山に住み着き修行に励んだ。その山は「山伏山」といわれている。能登にはこうした義経にまつわる伝説が多い。この地域には時忠の子孫とされる人たちもいて、平氏と源氏の伝説が共存する里でもある

  祭りには3基本のキリコが舞った。担ぎ手はシニア世代が多いが、元気がいい。伝説に彩られた地域の「祭りパワー」を感じた。

⇒14日(土)夜・金沢の天気     くもり
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