犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

啐啄同時

2016-12-03 00:10:08 | 日記

中国の仏典「碧巌録」に次のような問答があります。
中国に鏡清禅師という高僧がおり、一人の学僧が禅師に向かってこう嘆願したそうです。
「学人啐す、請う師啄せよ」と。
つまり「私は十分に悟りの機が熟しており、今まさに自分の殻を破って悟ろうとしています、どうぞ先生、外からつついてください」と学僧は禅師に向かってお願いしているわけです。
これに対して鏡清禅師はこう答えます。
「つついてやってもいいが、おまえというものが生まれてくるのか。」
学僧はこう答えたそうです。
「私は、もし悟れなかったら世間に笑われます」と。
鏡清禅師は「この俗物めが」と一喝しました。
その後の学僧の消息はしれない、というのが問答のエピソードです。

ここから「啐啄同時」(そったくどうじ)という禅語が生まれます。雛が卵の中から「啐す」(殻をたたく)、これに応えて親鶏が「啄す」(殻をつつき返す)。この両者の絶妙なタイミングによって雛はかえるのだ、という教えです。
師弟関係において、教えと学びの機の熟するベストタイミングというものがあり、過たずその機に双方からのアクションを起こすことによって「学び」は発動するのだ。普通そのように解釈されますし、それじたい優れた知見であると思います。

しかし、例えば安岡正篤が佐藤栄作に啐啄同時を教え、佐藤は「待ちの政治家」であることを学んだという逸話を耳にすると、そのようなプラグマティズムに回収されない何かを「こそ」学びたいと感じます。辛抱強く待ったから思いが通じたという実利的な因果関係ではなく、結果的に「学び」が成立する瞬間とはどのようなものなのかが、この問答では活写されていると考えるからです。

まず、出典の「碧巌録」に戻りましょう。
学僧は卵の殻の中から「啄せよ」と師に懇願しますが、殻の外は見えていません。一方、師は学僧の悟りの度合いを正確に測っているわけではなく、つまり殻の中が見えているわけでもありません。禅師としては、殻をつつき返すタイミングは学僧の殻をたたく時期と一致しなかったのだから、殻は破れず、結果的に何も起こっていないのと等しいことになります。にもかかわらず、問答のなかの学僧は「禅師、もう何かが起こっていることにしてください」と懇願したのです。
学僧は殻の中、師は殻の外にあって、お互いの対面は未だ実現していない。ここで「殻」と言っているものは、コミュニケーションを阻害する要因を指しているのではありません。学僧はそのことについて決定的に勘違いをしていたために、放逐されてしまうのです。

我々はイメージでものを考えます。学僧がおり、禅師がいて、それを隔てる殻が両者の間にあって、あたかも断面図を見透かすように全体の関係を見渡せるように考えてしまいます。だから、両者がうまく結びつくような知恵はないものかという風に思考は流れてゆくことになるのです。殻を隔てて存在する学僧と禅師とのコミュニケーションを上手にとって、学僧の習熟度合いを禅師に伝えることによって、「学び」の効率化が図れないものなのかと。
しかし碧巌録では、学僧の視点、禅師の視点のみが描かれており、その両者がつながり合うようにするための方法については、まったく考慮の外にあります。
いわば、殻が破れた瞬間に、学僧は師を発見し、師は学僧を発見して、「覚者」としての両者の関係がはじめて成立するのです。ちょうど雛がかえった瞬間に雛は親鶏を認識し、親鶏は雛を認識して、親子の関係がそこではじめて開けるように。ここで初めて親鶏は親鶏としての地位をさかのぼって与えられ、雛鶏は初めて雛鶏になると言えるでしょう。

だから、どうすれば殻は破れるのかと考えたり、時間が解決してくれるのだと開き直ったりすることは、方向がまるで違うのだと思います。破れることですべてが始まるのであって、破るために何か策を弄するという構えこそが、殻を破ることを遠ざけているのだと知るべきです。

コメント (1)
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