千利休の四百年忌の年、京都国立博物館の「千利休展」展示場でのことです。
会期前の設置作業をしていた三井記念美術館の赤沼多佳氏が、ちょうど細川家所蔵の花入「顔回」を箱から取り出して、展示台に置いた瞬間でした。
「ああ、顔回ですね」
という声が聞こえたので、赤沼氏が振り返ったところ、足下に子どもがうろちょろするだけで誰もいません。
このとき、大人達を心底驚かせたのが、現在の武者小路千家次期家元、千宗屋さんの子ども時代の姿でした。
千利休の再来とも言われ、ニューヨークで実験的な茶会を催すなどの試みを続ける千宗屋さんの著書『茶 利休と今をつなぐ』(新潮新書)に、決して嫌味ではなく添えられたエピソードです。
子供ながら目利きである、というだけではない、宗屋さんの人柄のなせるところでしょう、大人達にたいそう可愛がられておられます。京都随一の古美術商に好事家が集うサロンの中にも、自然とその姿がありました。
晩年の白洲正子に高校生である宗屋さんが、茶杓の造形について話をするという機会もあったそうです。
武者小路千家と縁の深い大阪の道具屋に、高校生の宗屋さんが出向いたときのことです。先方は「えらいこっちゃ」と大騒動で準備をし宗屋さんを迎えました。
このとき和物茶器の「これは見たことがある」というオールスターが、取り揃えてあったのだそうです。道具屋さんがお客さんに納めたものを、わざわざ借り受けてきたものもあったと記されています。
茶道具が一国一城に匹敵する桃山時代、天下人が道具を下賜することで、茶の湯ソサエティに参加してもよいという許可を与えました。天下人は道具の価値の決定権を握ることで、武将達を経済的にも精神的にも支配しようとしたわけです。
家元の許状システムの原型が、このがんじがらめの支配関係なのだとすると、支配システムそのものは無批判に継承されてよいものとも言い切れないでしょう。
しかし、宗屋さんが上記のようなエピソードを通して強調するのは、もともとが道具との抜き差しならない関係からスタートした茶の湯が、稽古の方法やマニュアル化された点前の順序にのみ矮小化されてはならない、という点です。
「世襲で家の芸、職というものが伝えられていく一番のメリットは、稽古場以外の場所で茶の湯について習い覚える時間がどれだけ長いか、ということに尽きると思います。」ーこう宗屋さんは述べます。
ささいな日常のなかにお茶に関わる情報が含まれており、それを空気のように呼吸するうちに、一椀のお茶に集約されてゆく、その静謐な生活を続ける覚悟が、宗屋さんの文章に滲み出ています。