お茶の稽古には、山花開似錦 (山花開いて錦に似たり)の掛軸が掲げられていました。出典の碧眼録は、この後に「澗水湛如藍」(かんすい、たたえて藍のごとし)が続きます。
人間はもとより形あるものはすべては滅びゆく存在である。その移ろう世の中で永遠に変わらぬ絶対的真理は如何なものでしょうか、と修行僧は大龍和尚に尋ねました。これに対して和尚は「山花開似錦 澗水湛如藍」と答えます。
いつかは散る花、いつかは枯渇する川が、いま疑いもなく輝いている様を指し示すことで、禅師は永久不変なものを求める修行僧の、問いの立て方そのものが間違いであることを諭した。
そう解されるところです。
禅の公案とは、禅師と修行僧との間で交わされる教育的な問答なので、どうしても禅僧の心構えはかくあるべしという教えが凝縮されていると考えます。しかし、そこに教育者の自尊心が強調されて、かえって煩悩が見え隠れするようにも感じます。
弟子の誤りを指摘したのだというより、そんなことより目を転じてごらん、と促したのだととらえたほうが、我々にとって心の糧になるのではないか、そう思います。
いまある美しさに視点を促し、それに同一化しようと語りかける禅語は、ほかにも多く見られます。例えば、次のような言葉たち。
青山元不動 白雲自去来(『五灯会元』)
山は厳然として動きはしないが、動いてやまない雲によって変幻自在の不動の姿を見せている。
行到水窮処 坐看雲起時 (王維『終南別業』)
ぶらぶらと、流れの尽きるあたりまで歩いて行き、腰を下して雲の湧くのを無心に眺めてみよう。
泉聲中夜後 山色夕陽時 (虚堂智愚『虚堂録』)
泉の音は、深夜に最も冱え響き、山色は夕陽に映じた時が最も麗わしい。
種明かしをすると、上記の禅語はいずれも、かつてクレイジーキャッツの植木等さんが歌った「だまって俺について来い」の、次の歌詞に響き合うものを選びました。
「見ろよ青い空 白い雲」
「見ろよ波の果て 水平線」
「見ろよ萌えている あかね雲」
それぞれ、1番、2番、3番の歌詞のサビの部分で、「そのうち何とかなるだろう」と続いてオチになります。
実は、冒頭の禅語から想起したのが、あの植木等さんの朗々とした歌声でした。