犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

三月三十日の風光

2019-03-30 15:30:08 | 日記

満開の桜に容赦なく風が吹き付け、桜吹雪が舞いはじめました。
唐代の詩人の賈島は、千二百年前の今日のこの日のことを、『三月晦日贈劉評事』という詩に詠んでいます。

三月正当三十日(三月 正に三十日に当たり)
風光別我苦吟身(風光 我が苦吟の身に別る)
共君今夜不須睡(君と共に 今夜眠ることを須いじ)
未到暁鐘猶是春(未だ暁鐘に到らずんば 猶これ春)

詩の大意は次の通りです。

三月、ちょうど今日は三十日
春の風光は、苦吟するこの身に分かれ去って行く
君とともに今夜は眠らずに過ごそう
暁の鐘が鳴らないうちは、まだ春なのだから

作者の賈島は、「僧は敲く、月下の門」の句を「敲く」にするか「推す」にすべきか悩みながら道を歩くうち、韓愈の行列にぶつかってしまう、あの「推敲」の成語のもととなった詩人です。二句目の「苦吟身」とは、そういう悩み抜いて詩作する姿を指しており、進まない筆を、春の風光が追い越すように過ぎ去ってゆく様子を、ため息とともに描いています。
ところが三句目に詩の趣が一変します。
行く春に追い越されないように、君とともに眠らずにすごそうではないかと、詩作の悩みそのものを、詩に溶け込ませていきます。ひとりで悩みに沈潜するのではなく、対象化してそれを共有できる友との語らいへと転じるのです。そうして、まだ大丈夫、春はまだ過ぎ去ってはいない、とみずからを励ますように四句目を結びます。ちなみに「君」とは春を擬人化したものだと解する読みもありますが、ここはやはり友人に対する呼びかけ、と読みたいところです。
悩みから逃れるのではなく、悩んでいる自分自身を遠くの視点から眺めることができる、そういう強さも感じる詩です。

賈島には『尋隠者不遇(隠者を尋ねて遇わず)』という詩があります。

松下問童子(松下 童子に問うに)
言師採薬去(言う 師は薬を採りに去けりと)
只在此山中(只だ此の山中に在らん)
雲深不知処(雲深くして処を知らず)

詩の大意は次の通りです。

松の木の下で童子に隠者の行方を尋ねると
師は薬草採りに山へ出掛けておりますと答える
今は、この奥深い山中の何処かに居るけれども
あまりに雲が深くて、何処に居るかは判りません

隠者の隠者らしいところを描いた詩ですが、どこかとぼけた味わいもあって、童子の答えをあらかじめ予期していたような聞き手の脱力感も伝わってきます。老師のゆくえを遠い目で追う童子の視線に、その視線を追う聞き手の視線が重なって、霧がかかったような世界が広がるようです。
童子の視点が加わることで厚みが生まれるのは、前掲の三月三十日の詩に、眠らずにともに過ごす友人が登場して、世界が広がるのと同じ効果です。
ちなみに、博多の仙厓和尚の遺偈は『尋隠者不遇』と同じ「雲深不知処」で結ばれていて、これも生死の境をさまよう自分自身を俯瞰し、「まるで隠者のように何処にいるのかわからないじゃないか」と弟子たちとともに笑い飛ばすような、不思議な魅力をたたえています。


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