「ししうど」は8月に咲く可憐な花です。複数の枝先に白い小さな花がいくつも咲いて、一斉に開いた花火のようにも見えます。
きみがもうゐないから自分で覚えなければと柵のむかうのししうどの花
(永田和宏『午後の庭』)
この世の豊かさや不思議さをたたえて咲き誇る花があって、その名を教えてくれる人はもういない。「驚き」を言葉に変える介助者、あるいは言葉を介して驚きを共有できる随伴者がいなくなること、それは世界を支えるものの喪失を意味するのでしょう。
木の名草の名なべては汝に教わりき冬陽明るき榛(はん)の木林
(永田和宏『華氏』)
汝とは、癌で早世した妻河野裕子であり、彼女に草木の名を「なべて」教えてもらっていたようです。永田さんは著書『家族の歌』で妻の壮絶な闘病生活と自身の心の動きを包み隠さず吐露していますが、冒頭の歌にも当惑とも悲嘆ともつかない切ない思いが、にじみ出ています。
それでもわれわれが「ししうど」の歌で励まされるのは、「自分で覚えなければ」の一語があるからだと思います。
この世のなかは言葉によって組み立てられていて、たとえば「ししうど」という名を介して世界がジグソーパズルのピースをはめ込むように、ひとつの統一体にまとまります。
しかし道端に可憐な花が咲いていて「ああ、ししうどだ」と思わず口をついて出てくるときのその言葉と、「自分で覚えなければ」と改めて思う「ししうど」とは、どこか大きな違いをはらんではいないでしょうか。
言葉の世界が自分にとって大切な人によって支えられていることに気づくとき、世界は愛おしいものに変わります。母親から口伝えで教えてもらった言葉、家族で育んだ言葉、社会によって鍛えられた言葉。どの言葉も大切な人に支えられた愛おしいものであるはずなのですが、普段そのようなことを忘れて言葉を道具のように使い、世界をとらえています。
道具としての言葉ならば、それによって組み立てられる世界の約束事に、盲目的に従うことも、感情的に反発することも、どちらの選択も簡単です。それを支える人が視界から消えれば、振り子はどちらにも容易に振れてしまいます。
ところが、その世界を支えてくれた人がもういないことを意識して「自分で覚えなければ」と思うとき、言葉には愛おしいものを永続させたいという願いが込められます。大切な人とのあいだで育まれていた豊かな言葉の世界を、自分が引き継ぐのだという覚悟も、そこには伴います。
ほんの単純なことなのに、わたしたちは「大切な人」を失ってはじめて、このことに気がつくのです。
「きみがもうゐないから自分で覚えなければ」と詠む歌人の眼差しは、母親に向けられるもののようでもありながら、冒頭の 一首は世界を背負う巨人のつぶやきのようにも聞こえます。