犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

百尺竿頭進一歩

2020-12-06 10:08:39 | 日記

今年の茶の稽古もあとひと月になりました。
残された日が短いからこそ、あと一歩もう少し頑張ってみようと考える時期でもあります。
「百尺竿頭に一歩を進む」の語を思い起こしますが、これは前人未踏の最前線に立ってもなおその先を目指す、という意味あいとともに、自分が勝手に作り上げた垣根を破れという戒めでもあります。

玄侑宗久さんの秀逸なたとえによると、人間の可能性の尽きることがないことは、ちょうど無限の「引き出し」のあるタンスのようなものです。引き出しは無限であるにもかかわらず、どうしても習慣によって開ける引き出しが決まってしまう。そこで、背伸びをして高い位置にあるものや、遠くのものも開けてみる。それが修行としての日常だというのです。
そもそも、私たちは、引き出しを無限に持っているという認識すらありません。習慣的に開けている引き出しが、わたしの全てであってそれ以外の可能性に気がつかないのです。そこで、背伸びをして高いところに目をやったり、遠くに手を伸ばしたりしてみて、初めて引き出しの存在に気がつくのではないでしょうか。

それでは、人に背を伸ばしたり手を伸ばすことをさせるのは何でしょう。
松下幸之助は成功する人が備えていなければならない三つのものとして「愛嬌」「運が強そうなこと」そして「後ろ姿」だと述べました。後ろ姿とは、その人の言葉の裏にどのような想いが秘められているのか、思わず想像が膨らんでいくような姿です。
自分がどうにかしなければいけないと思わせて、ついついその人のために動いてしまう、そういう要素が人を結果的に成功させるというのです。
玄侑さんの「引き出し」の例えに戻ると、見る人を受け身ではなく能動的にさせる「陰り」のようなものが、ああでもないこうでもないと、新しい引き出しに手を伸ばさせる、と考えることができます。

千手観音の手がなぜあのように沢山あるのかという問いに対して、「闇の中、後ろ手で枕を探す」と答える禅問答があるのだそうです。観音様の慈悲とは、救うべき人とその苦悩をあらかじめ熟知していて、超能力で片っ端から片付けていくようなものではなく、闇の中で枕を探すような当てのない行動だというのです。引きつけられる「陰り」に導かれて、失敗を繰り返しながら、それでもあきらめずに、その手がようやく「陰り」を癒すところにたどり着くのです。

柳宗悦は『茶道論集』のなかで、茶の本質を「わび、さび」ではなく「渋さ」という民衆の言葉で語っています。そしてその真髄は「貧の心」にあると言います。「貧の心」とは、無限なるものに自らを開くために、「足らないこと」や「陰り」に自らを置いてみる心を指しています。

このように考えてくると、茶の湯の美とは、「陰り」とそれによって引き出される無限の可能性との、両者の出会いによって生み出されるエネルギーのようなものと理解することができないでしょうか。ちょうど「自分がどうにかしなければならない」と、居てもたってもいられなくなるように。


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