犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

中陰の雲

2021-09-25 13:49:18 | 日記

玄侑宗久の『中陰の花』は、主人公の住職の知り合いのお婆さんが亡くなってから中陰(四十九日)を迎えるまでの間の住職夫婦の関係を核にして、死生観を展開していく小説です。この夫婦の会話の中に、極楽浄土はどの辺りにあるかという話があって、私は前からこのくだりが気に入っています。
住職いわく、極楽浄土は十万億土の彼方にあると言われているけれど、その距離を実際に計算してみた人がいる。そこまで四十九日かけてたどり着くまで、どのくらいのスピードが必要かを計算すると秒速30万キロになって、ちょうど光の速さと同じなのだと住職が講釈します。
妻は「なんかきれいすぎるなあ」と返し、住職は「ええやん、綺麗なのは」と応えるのです。

さて、私はこの話をもとに、無粋を覚悟で極楽浄土までの距離を計算してみたことがあります。
1光年が9兆5千億キロなので、これを365日で割って49を掛けると、1兆2700億キロの彼方にあることになります。文字どおり天文学的な数字なので、太陽系の大きさと比較してみます。
太陽系の「ヘリ」というのには2種類の考え方があって、ひとつは太陽から吹く「太陽風」の及ぶ範囲とするものです。ここまでの距離がおおよそ150億キロ。極楽浄土はまだまだ先にあります。
太陽系の「ヘリ」のもうひとつの考え方は、太陽の重力圏の有効範囲を指し、これは約2光年離れていると考えられるそうです。そうすると、極楽浄土はこのふたつの「ヘリ」の中間にある、という理屈になります。
このふたつの「ヘリ」の間には「オールトの雲(Oort Cloud)」という小天体からなる構造があると仮想されており、極楽浄土はちょうどオールトの雲に浮かんでいることになります。冒頭のウィキペディアの図ではオールトの雲の中心は1兆5千億キロ(1万AU)離れていて、1兆2700億キロ離れているという極楽浄土の位置とおおむね一致します。

愚にもつかないことを長々と書いてしまいました。西行ではありませんが「憂き世の外はなかりけり」と日頃思っているので、極楽浄土をひたすら念じているわけでもないのです。そうではなく、極楽浄土が太陽系のかろうじて内側にあって、その外側にないという認識が、何ともしれぬ安心を与えてくれるのです。

ちょうど中秋の名月の右上に浮かんで、明るい光を放っていたのは木星でした。そのやや右上には小さく土星が瞬いています。ずっと右に目を転じると、木星と明るさを競うように金星が輝いています。これらは全て太陽系の惑星で、太陽の光を反射しているのです。星座を形づくる恒星とは違って、それぞれ日毎に違う表情を持っていて、こちらに語りかけて来るように思います。
しみじみそう思ったのは、3年前父の葬儀を終えてフッと一息ついて夜空を見上げた時が最初でした。
こちらに語りかける星に言葉を返そうとしたとき、そこに父がいるように感じたことを、今もはっきりと覚えています。極楽浄土がそのあたりにあるならば、ちょうど合点がいくように感じるのです。

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