犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

こころが収まること

2022-02-11 10:00:33 | 日記

河合隼雄の昔の本を集中的に読み返すなかで、新たな発見がいくつかありました。
そのひとつが、この話を英語にするとどうなるのだろう、と自問している箇所が目立つことです。海外で講演や研究発表を頻繁に行なっていたので、とっさにそう考えるのでしょうが、どうしてもきちんと英語に訳すことができない話が日本にはたくさんあるのだそうです。

たとえば、外国人に日本の隠れキリシタンの末裔の話をしたときのこと。
その人は「我々は、隠れキリシタンなんてやっていませんよ。神も仏もありません」と言い切ります。ところが室内には立派な神棚があり、灯明も杯も飾ってあります。「失礼ですけど、あれなんですか?」と尋ねると、こともなげに「あれあったら落ち着きまっしゃろ」と、その人は答えたのだそうです。
この話を英語にするとき、「落ち着く」ことの「主語」を何にするのか悩んだと言います。「我々」なのか、家族なのか、宇宙なのか、そのあたりのことを全部込みにして、あえて不問のままに「落ち着きまっしゃろ」と言ってしまうところが日本語にはある、と河合は述べています。(『なるほどの対話』新潮文庫参照)

そして、こんな話もありました。
子どもの頃に読んだ「水戸黄門」の講談に幽霊が出てきて、人々を困らせる話です。その幽霊は「今宵の月は中天にあり、ハテナハテナ」と問い、納得いく答えができなければ、命を奪ってしまいます。「月が中天に浮かんでいるのはなぜか」という問いに答えよと言うのです。
この幽霊に出会った水戸黄門は、少しもあわてず次のように答えました。

「宿るべき水も氷に閉ざされて」

これを聞いた幽霊は大喜びし、三拝九拝して消えてしまったという話です。黄門の言葉を上の句とし、幽霊の言葉を下の句とすると三十一文字の短歌として収まっており、幽霊も心が収まって消えていったのです。

しかし、と河合は考えます。
短歌として収まっているとか、心が収まるとかの「収まる」を英語で説明するとどうなるのだろうか、と。(『こころとお話のゆくえ』河出文庫参照)

エッセイの多くは、問いにとどまっていて、河合自身が解説を加えることはないのですが、次のようなことを考えました。
どちらの話も問いに対する答えという構えをとっています。
最初の話だと「神も仏も無いあなたにとって、あれは何ですか」を含意する問いかけです。2番目の話は「今宵の月は、なぜ浮かんでいるのか」という問いから始まります。
ところが、回答からは「神も仏も無い私」や「今宵の月」が、主語の座から抜け落ちてしまいます。そして「その場の雰囲気」のようなものが、「落ち着いて」いたり「収まって」いたりすることに重きが置かれるのです。
つまり、どちらの回答も、問われている主語の性質を追究するのではなく、主語のいる「場」を俯瞰して、その見え方が納得いくものかどうかの判断にずらしています。

言い方を変えると、主語を問い詰めるような息苦しさから、その瞬間は楽になれる。日本語にはそのようなおおらかさがあります。
質問をはぐらかして、その場を収めてばかりいるのは問題だけれども、ある美的判断に基づいて「収まっている」と感じるのは大切なことではないか、と河合は述べています。
心理療法家にとって、分析による解決法だけではなく、心を収める道も大切に思えるのだと。


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