犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

再生の桜花

2022-03-18 22:06:55 | 日記

先日、福岡市では全国で最も早い桜の開花を観測しました。例年よりも5日も早い開花なのだそうです。勢いよく咲き出す花は、無常を感じさせる桜の風情とは違って、真っ直ぐな生命の輝きを帯びています。

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり
(岡本かの子『浴身』)

今年咲く、ただ一度きりの花、そして、それを見る私の人生もただ一度しかない。生命を燃やし尽くした、かの子らしい歌です。
関東大震災に被災して島根での避難生活を終えたのち、新田亀三と新しい恋に落ちたころの歌なので、愛人堀切茂雄の病死、長女、次男の相次ぐ早世から、ようやく立ち直りかけた時期の心情をも表していると思います。その意味では、生命の再生の歌でもあると言えるでしょう。
命の横溢に圧倒されながら、ただ圧倒されるだけではなく、堂々と対峙して生命を奮い立たせる、かの子の息吹が聞こえるようです。

桜の花を詠んだ歌で忘れられない、もう一首。

夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん
(馬場あき子『雪鬼華麗』)

三十年近く勤めた教師の職を辞して、京都に旅したときの歌です。そのときの様子をあき子は次のように語っています。

宿泊した宿の中庭の桜を、夜半に起き出して眺めていた。灯火のほのかな明りの中に浮かび出た桜は、人々の寝しずまった静かな闇に佇んで、誰の目にも見られないまま、自ずからなる摂理に従って、白い花びらをはらはら、はらはらと惜しみなくこぼしつづけていた。四十九歳で職を捨てた私の感じている、惜しまずにはいられない時間の、刻々の消滅のようにも、私という存在を残して過ぎてゆく非情な時間のようにも感じられた。(歌林の会「さくやこの花」)

職を辞した直後の不安の中にあって、詠み手は「自ずからなる摂理に従って」花を散らす生命と対峙します。それは「私という存在を残して過ぎてゆく非常な時間」のようにも感じられるのですが、同時にその幽玄な姿に出会うことで、ただひとり歩みを始めるものの決意が秘められているようにも思います。かの子が歌ったように「生命をかけて」向き合おうと、奮い立たされたのではないでしょうか。
この歌もまた、人生の大きな転機で満開の桜と出会い、再生の灯火をあげる一首だと思うのです。


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