一滴垂らしたインクが、水槽いっぱいに拡がるように、鬱々とした気分は放っておくとどこまでも拡がります。
今からおよそ百年前の人も、時雨どきの鬱陶しい時期には気分が滅入っていたようで、たまたま古本屋で手にした一冊にも、次のようにしたためられています。
どうもわれながらおもしろくない。仕事かトランプ遊びでもやると、頭の中にいろんなこまかい原因が出てきて、うれしいかと思うと悲しくなり、悲しいかと思うとうれしくなり、猫の目よりも速く気分が変わる。その原因というのが、手紙を書かなければならないとか、電車に乗りおくれたとか、外套が重すぎるとかぐらいのことなのだが、ほんものの不幸と同じようにはなはだ重大なものになる。分別ぶって、こんなことはおれにはどうでもいいはずだ、ということを証拠だててもだめなのだ。おれの分別は、ぬれた太鼓も同然で、さっぱり役に立たぬ。それで結局われながら、少し神経衰弱だなと思うわけさ。(角川文庫15-16頁)
これは『幸福論』の一節で、アランの「たいへん学問があって道理もわきまえた友人」が、しみじみと述懐しているくだりです。およそ半世紀前の若い頃に同書を読んだときには、何の感慨もなく読み飛ばしていた箇所なのですが、手にとった古本屋で、しばらくこの箇所にとどまってしまいました。
まるで今の自分の気持ちをそのまま書き写しているようで、可笑しくなったからです。
加齢による症状なのかとも考えていたのですが、こうやって百年前の人も同じようにボヤいていて、この百年間もずっと同じことが繰り返されたのかと思うと、別の感慨にとらわれます。
アランがこの友人にどのようなアドバイスを与えたかは、ここでは省きます。端的に「クヨクヨするな」と言ってあげたと想像すれば、それが実際に近いのではないかと思いますし、もっと哲学的な言葉を付け足すとすれば、同書の別の箇所で述べている「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」(263頁)に尽きると思います。
そんなことではなく、自分のなかで大きな位置を占めている憂鬱が、文字にしてみると何とも滑稽に見えてくるというのが、アランの語ろうとする哲理よりも、私にとって大きな収穫でした。
「精神」は「感情」と混同されることがありますが、精神は千々に乱れる感情と適切に距離をとることができます。文字にすることで感情と距離をとり、それを再配置することさえ可能なのです。
「猫の目よりも速く気分が変わる」感情の導くままに、混沌のままに眠りこけることは決して人間らしさなのではなく、その眠りから身を奮い起こすことこそが、人間にしかできない手品なのではないでしょうか。
「精神」が目覚める瞬間とは、まさにこの時なのだと古本を抱えながら思うのです。