福岡城址公園では梅の花が盛りを見せています。これから一層の厳しい寒さを迎えるこの時期に咲く花は、凛々しさと同時に、試練のなかに救いをもたらす力を宿しているようにも思います。
針の穴一つ通してきさらぎの梅咲く空にぬけてゆかまし
(馬場あき子『かりん』)
馬場あき子はエッセイのなかで、この自作に触れたあと、次のように述べています。
針の穴をすっと通すのが得意たっだ。「針の穴は目で通すんじゃない。すっという気持ちで通すのよ」などと大口をたたいていたが、今も眼鏡なしになぜか通せる。(コラム「さくやこの花」『歌林の会』所収)
針の穴にねらいを定めるのでなく「すっという気持ち」で糸を通すことが、無念無想で咲く梅の花に通じるのでしょう。ひたすらにみずからを律し、寒さの中でもいち早く花を咲かせてみせる梅の姿は、気品をたたえながら、ひとの気持ちを落ち着かせる余裕さえ見せています。
針に糸を通す女性を描いた上村松園の絵「夕暮」をみて、まるで菩薩が現れたように思ったと、染織家の志村ふくみは、こう書いています。
「夕暮」の、あの障子のかげからそっと身をよせて黄昏の光に針のめどに糸をとおす女性、私は我を忘れてあの女性にみいっていた。質素な無地の着物をきた庶民の中のひとりの女性がふしぎに菩薩に見えてきてしまったのである。人は菩薩の画を描いて少しも菩薩でない画もある。菩薩を描かずとも菩薩である場合のあることをはじめて知った。(志村ふくみ『語りかける花』)
上村松園は、四十を過ぎて大きなスランプに陥り、ここから抜け出そうと、六条御息所が怨霊となった「焔」という凄まじい絵を描きました。その絵を描くことで白い焔を吐き切ったとき、怨霊は鎮まってふしぎに心がなごんだといいます。その静かな心境で描いたのが、志村ふくみが菩薩と呼ぶ「夕暮」です。
馬場あき子のいう「すっという気持ち」というものが、試練を抜け切った後の、上村松園の静かな心境と重なります。「焔」が乗り越えるべき厳しい冬だとすれば、「夕暮」はようやく訪れた春であり、糸を通す女性は梅の花の化身ではないでしょうか。