犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

夫婦の歌、親子の歌

2023-03-15 23:50:04 | 日記

暖かな日差に促されるように、東京ではもう桜の開花宣言が出たとのこと。
今日のような天気のよい日に、公園の水辺の決まった場所に、昨年よく老夫婦を見かけたものです。奥さんは車椅子に乗って、ご主人はその隣にいつまでも腰を下ろしていて。いいご夫婦だねと一緒に散歩する妻と語り合ったのは、寒くなる前、もう半年ちかく前になります。

仕事もひと段落して、もしやと思ってその場所に行ってみましたが、ご夫婦には会えませんでした。
あの夫婦が、この歌のような心境で、桜を見に出掛けてくれればと思います。

車椅子日和とおもふ昼過ぎをそはそはとして早退(はやび)け図る
(桑原正紀『短歌研究』08年2月号)

病気で運動、認知能力に障害を負った妻の、夕食前のリハビリに付き添う生活を詠った一首です。勤め先を早退けして、車椅子日和ともいうべき日を妻と過ごそうと「そわそわ」しているのです。介護生活をことさらに辛いものとしてとらえるのではない、作者の潔さを感じます。
介護や闘病の歌というよりも、夫婦の自然な風景を詠んだ歌として心に残ります。

家族の風景として、忘れられないのが次の一首です。

我がジャケツのポケットに手を差し入れて物言はぬ子の寄添ひ歩む
(高安国世『眞實』)

幼い子の手が父親のポケットに自然に差し入れられて、父親もそれを黙って受け入れている。ポケットのなかで子どもの手の温もりを感じながら、もの言うこともなく寄り添って歩いている姿は、どこか寂しげながらほほえましくもあります。

この歌が発表されてしばらくして、この子は耳が不自由であったことを、読者は知るようになりました。その事実を踏まえると、言葉で気持ちを通わすことのできない子の手を包む、父親の手の温もりがここに加わります。そんな父親へ寄せる子の信頼も、この一首から感じることができます。
この歌には、秘められた苦悩の跡や静かな決意が詠み込まれていて、それが幼な子の手の温かさとともに、詠み手だけをひそかに励ましていたのだと思います。

病や障害は、こうやって人と人とを寄り添わせて、相手の存在が生きることの大きな力になることを、これらの歌は教えてくれます。肩肘張った決意などではなく、しなやかさを感じさせ、どこか懐かしくもある力です。


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