犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

「桃」のチーム

2023-03-28 19:31:38 | 日記

少し前に「梅、桃、桜」についての玄侑宗久の話を紹介しました。春先に咲くそれぞれの花には、異なった趣があって、それぞれの花になぞらえてみると、世の中も豊かに彩られるようだ、という話です。

厳しい寒さに耐えてようやく咲く梅は、剪定が欠かせないところもあり、自らを律する儒教的な印象があります。一気に咲いて一気に散る桜の花は、浄土教の無常に通じるところがあります。これに対して梅の花は、本来無一物で汚れようのなかった心に気付く、禅の世界に通じるというのです。
梅の規律のなかにも、桃の周囲を信じる無邪気さと、桜の無常への感性の両方があって、はじめて人生は奥行きを見せるのではないか。
こんなことを、玄侑さんの言葉を借りながら、書き付けました。

WBCの野球を見ていて、別の角度からこの話を考えることがありました。
2009年日本が優勝したときの決勝は、どうしてもイチローのセンター前ヒットが思い浮かびます。苦しみ抜いた末に、最後の見せ場で結果を出す。これは、玄侑さんのたとえで言うと「梅」の姿そのもの、ひたすら自らを律して、苦境を脱する姿です。

今回の大会でも、村上宗隆が不振にあえぎました。最後の最後の見せ場で結果を出す、というのはイチローと重なるところがありましたが、「梅」の姿に例えるのは違うように思います。村上選手の苦しんでいる姿は、悲壮感こそ漂ってはいましたが、打席では桃太郎がバットを振っているように見えました。

栗山監督が選手を信じると繰り返し言っていたように、最後には仲間を信じるという無邪気さが、強さを引出したのではないかと勝手ながら思います。そういった意味でも侍ジャパンは「桃」のチームだったのではないかと思うのです。

自粛ばかりが要求され、行われるはずの行事ごとも中止になったこの3年間は、我慢の「梅」と無常の「桜」の世界ではなかったかと思います。
だからこそ「桃」のチームが無敵の強さを誇ったのは、とりわけ若い人達にとって、示唆するところが大きかったのではと思います。仲間というものは、そして世の中というものは信じるに足るものだと、教えてくれたように思います。


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