犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

スティーヴンソンの吉田松陰伝

2023-11-15 19:35:02 | 日記

小説『宝島』で有名なスティーヴンソンは、世界で初めて吉田松陰伝を書いた人なのだそうです。
1882年出版のエッセイ集『わが親しめる人と書物』に収められた一編 “Yoshida-Torajiro”『吉田寅次郎』です。
実家が代々灯台設計・建築を営む名家で、エディンバラ大学の工学部で嫌々技師の勉強をしていたスティーヴンソンは、同じ工学部にいて英語が不自由なのに猛烈に勉強する日本人に出会います。
正木退蔵(後の東京工大初代学長)というその日本人に、どうしてそんなに勉強するのかと聞くと、こう答えたのだそうです。
自分の先生に吉田寅次郎という人がいた。この人は二十代の志なかばで殺されたのだが、殺される日まで学問をしていた。だから自分は勉強をしなければならないのだと。

この話に大きな感銘を受け、学業をおろそかにしていた自分を恥じて、前述の吉田松陰伝を書き上げたのだそうです。建築の道を諦めたスティーヴンソンは、子持ちのアメリカ人女性と恋愛して、その連子のために地図を書いて遊んでやっているうちに、その時のお伽話が『宝島』に結実します。父親の影響下の殻にこもっていた自分から踏み出して、想像力を羽ばたかせ自らの世界を広げてゆくのです。※1
この話は『日本人は何を捨ててきたのか 思想家・鶴見俊輔の肉声』(筑摩書房)に載っていて、十数年ぶりに再読し、改めて感銘を受けました。※2

幕末期、西欧列強の侵略という荒波をやり過ごすために、日本人は明治政府という立派な「樽」を大急ぎで作り上げ、その樽のなかに籠っていることで、なんとか難破することは避けられました。しかし吉田松陰を含む樽を作った人たちは死に絶えて、樽の中で純粋培養されたような、ひ弱な存在だけが残ったというのが、鶴見俊輔の見立てです。樽のなかで自足してしまい、人に大きな影響を及ぼしうる屹立した個人が生まれないのは、今も変わらないのだと。

では、その殻を打ち破ればよいのかというと、そうではないと鶴見は答えます。樽のなかにいるものは、「ゆっくり樽の中を見回すことによって、樽の外に繋がる」と語ります。※3

スティーヴンソンは、吉田寅次郎という強烈な個性によって目を覚まされましたが、自分を取り巻く環境から完全に自由になったわけではありませんでした。連れ子のために一生懸命地図を書いてあげることで、地図の世界の外に踏み出すのです。
自分を閉じ込めている「ものの見方、考え方」から一気に飛び出すことは難しくとも、その殻の中をゆっくり見回すことは可能です。そして見回すことによって殻の外に繋がることができるのだと、鶴見俊輔は言います。

※1 スティーヴンソンの吉田松陰伝については、よしだみどり著『知られざる「吉田松陰伝」-『宝島』のスティーヴンスンがなぜ? 』(祥伝社新書)が出版されています。

※2 近著『ネガティヴケイパビリティを生きる』(谷川嘉浩他著 さくら舎)に、鶴見俊輔がネガティヴケイパビリティについて述べているくだりがあるという指摘があり、本書を読み返しました。

※3 これは、吉本隆明との論争のなかで、吉本の主張を柔軟に受け入れた鶴見の結論でした。


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