前回ご紹介した『イチョウ 奇跡の2億年史』(P.クレイン著 矢野真千子訳 河出書房)を読んで強く印象に残ったことは、歴史をたどる「時間の単位」が途中で大きく変わることです。イチョウが大繁殖した太古から絶滅寸前に至るまでの時間の単位と、ようやく生き残った種が復活していく過程の時間の単位とがまったく異なるのです。
化石の研究によって過去から現在までの歩みをたどる道筋は、著しく時間の単位が大きなものでした。2億年前に出現し、約6千5百万年栄えたイチョウが、数百万年前に絶滅しかかったところまでは、「数千万年」短くても「数百万年」の単位で時間が測られます。科学の言葉で語られる悠久の時間です。
ところが、中国南西部に生き残った種が、中国各地で栽培され始め、それが日本にたどり着き、やがて長崎出島からヨーロッパへと渡っていく時間の単位は、「百年」から「数十年」に縮まります。古文書や交易記録など、年代を確定しやすい媒体に書き留められるからです。そしてヨーロッパ各地での移転の過程は、手紙のやりとりなどで、ピンポイントで時期が特定されます。
イチョウ絶滅間近からの復活は、人間が関与しており、その関与の過程で何らかの記録が残されるので、当然といえば当然の結果です。時間の単位が「人間サイズ」になっていくとも言えるでしょうか。あるいは、絶滅寸前までの歴史が、巨木の「足跡」だとすれば、復活していく歴史は、人間の「筆跡」と言い換えられるかもしれません。
著者P.クレインは本書の最後に絶滅危惧種の保存について論じるなかで、次のように語っています。なぜ種を保存するのかという問いに対して、「芸術作品を保存する理由を考えてみればいい」というたとえ話を聞くことがあるが、それは大事な点を見落としているのではないかと。
著者の印象的な文章を引用します。
私にとって、ヒトが数日あるいは数年かけてつくりあげたものを失うことと、自然が何千年もかけてつくりあげたものを失うことは根本的に違う。どちらも悲惨な損失ではあるが、名作の消失と種の消失では比べものにならない。ヒトの創造力と自然の創造力を同列に論じてしまうと、私たちが直面している問題の大きさを見過ごすことになる。だから、同じたとえ話なら、「介入できることがあるのにそれをしないで種を絶滅させることは、本の読み方をおぼえたら図書館は焼いてしまってもいいという考え方に等しい」という話を私は使いたい。図書館が焼失したら、そこに収納されていた情報も、私たちが世界を知るための入り口も失われる。種が絶滅したら、過去を知る機会が失われる。過去を知ることは、未来の舵とりにかならず役に立つ。(380頁)
私たちは、たとえばイチョウの歴史をたどるときに、絶滅しかかった種を誰がどのような偶然の力によって復活につなげたか、という話に惹かれます。長崎出島からヨーロッパへ知られる過程などは、ワクワクして読み進めることができます。一方、その「人間サイズ」の物語の前段階に、その数百万倍の自然の歴史が存在したことは、「前史」程度に軽く扱われることがあるかもしれません。
しかし、そうではなくサイズの異なる歴史を合わせた、すべての生命の過程が私たちにとって欠くべからざる自然史なのだと、本書は物語っています。それは同時に「人間サイズ」の歴史が、イチョウの自然史のほんの数百万分の一に過ぎないことを認めることでもあります。
実際、イチョウの巨木は人間を圧倒し、その黄葉が醸し出す世界は人間にとって異世界のようにも見えます。イチョウの存在そのものが「人間サイズ」のものの見方を、簡単に相対化してしまうような力を持っているのだと思います。
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