久しぶりに庚申塔に出合いました。
東武東上線東武練馬駅下車5分の道端にありました。
4基の石像が並んでいました。このうちの2基が庚申塔でした。
左から2番目のものです。
青面金剛像 三猿は言わざるしか残っていませんでした。
寛延3年(1750年)263年前の笠つき庚申塔でした。
右端のものも庚申塔です。
青面金剛像 三猿は言わざる、聞かざる、見ざる(上に2羽の酉)
正徳4年(1714年)299年前の笠つき庚申塔でした。
江戸時代初期、庚申塔には本尊とされる青面金剛と三猿が彫られることが多くなりました。
江戸中期から後期にかけては「庚申塔」「庚申」と文字のみ彫り付ける形式に変化していきました。
ですから、三猿が刻まれていると、嬉しくなります。
明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを撤去した。
また、その後の街道の拡張整備工事によって庚申塔のほとんどが撤去や移転されてしまいました。
隣りには正観世音菩薩堂がありました。
仁王門だと思います。
仁王像は背中の彫刻が読めず、制作年月日は不明です。
多くの地蔵尊は前垂れや帽子をかぶらされ、彫刻が見られなくなっています。
背面に制作年月や奉納者の氏名が刻まれています。
先日のピンコロ地蔵の左手にも帽子がかぶらされていました。
お地蔵さまは寒くないはずです。
ちょっと迷惑なおせっかいだと私は思っています。
東武東上線東武練馬駅下車5分の道端にありました。
4基の石像が並んでいました。このうちの2基が庚申塔でした。
左から2番目のものです。
青面金剛像 三猿は言わざるしか残っていませんでした。
寛延3年(1750年)263年前の笠つき庚申塔でした。
右端のものも庚申塔です。
青面金剛像 三猿は言わざる、聞かざる、見ざる(上に2羽の酉)
正徳4年(1714年)299年前の笠つき庚申塔でした。
江戸時代初期、庚申塔には本尊とされる青面金剛と三猿が彫られることが多くなりました。
江戸中期から後期にかけては「庚申塔」「庚申」と文字のみ彫り付ける形式に変化していきました。
ですから、三猿が刻まれていると、嬉しくなります。
明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを撤去した。
また、その後の街道の拡張整備工事によって庚申塔のほとんどが撤去や移転されてしまいました。
隣りには正観世音菩薩堂がありました。
仁王門だと思います。
仁王像は背中の彫刻が読めず、制作年月日は不明です。
多くの地蔵尊は前垂れや帽子をかぶらされ、彫刻が見られなくなっています。
背面に制作年月や奉納者の氏名が刻まれています。
先日のピンコロ地蔵の左手にも帽子がかぶらされていました。
お地蔵さまは寒くないはずです。
ちょっと迷惑なおせっかいだと私は思っています。
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