2月17日(金)は九州南部に春一番が吹きました。
雨はわずかでしたが、車の窓を開けるほど生暖かい一日でした。
以下の画像は17日に撮影したものです。
鹿児島市郡山町の花尾神社に参詣

境内山林の祠

丹後局の墓所

花尾神社は杉や雑木林に囲まれて昼間も薄暗く心落ち着く場所です。墓石や石塔、祠などが周囲の斜面に点在しています。秋分の日は大祭で伝統芸能が披露されにぎわいます。
杉落葉と椿

通り雨

集会所の大屋根軒下には2月12日の残雪がありました。昼前の通り雨で、雨垂れが勢いよく落ちてきました。雨垂れを見るのは久しぶりです。昭和30年代の麦わら屋根や雨樋のない頃、雨垂れが作る水の輪を眺めるものでした。
道を山手に進むと青い実が

道路脇の紅梅

花尾のかくれ念仏洞の入口

山道に分け入る

杉林の中を上る

もう一息

念仏洞に着きました

ここを訪れたのは10年ぶりほどです。山手に少し入ったところに駐車場、トイレ、休憩所が整備されています。
雨の杉山を上ること約6分、念仏洞に着きました。途中で息が上がりました。ゆっくりと上がれば15分ほどでしょうが、狭い階段道なので足元に注意が必要です。
禁制の厳しかった時代に夜陰に紛れてたどり着くのは、大変な苦労があったことでしょう。信仰の灯が今に伝わっていることは感慨深いものがあります。
岩穴の中に置かれた仏様

入口側を見る

案内板

薩摩藩では300年にわたり浄土真宗が禁止されていました。
浄土真宗西本願寺派鹿児島別院のホームページから引用して紹介します。
かくれ念仏の歴史
鹿児島に、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まります。
浄土真宗のみ教えが人々の間に流布すると、為政者による浄土真宗排斥の気運が生じました。それは「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い」という浄土真宗の教えが、当時の封建体制に相添ぐわなかったからです。そして真宗信者の結束力による統一的な行動が、政治的に利用され、一向一揆へと進展する危険性をはらんで、封建体制にとっては危険を感ずるものであったからと言われています。
以来、真宗信者の摘発は続きますが、慶長2年(1597)2月22日、第17代島津義弘によって正式に真宗が禁止されたのでした。
弾圧は厳しく、特に郷士層への摘発がなされ、身分を百姓へ移し、また居住地をも移すという処分が行われましたが、これは士分の削減と兵農分離政策をおしすすめ、近世的支配体制を確立しようとする薩摩藩の政策と大きく関係したものと思われます。
幕末期の天保6年(1835)、弾圧は極みに達し、この時期に摘発された本尊は2,000幅、門徒は14万人以上と言われ、弾圧と殉教の悲話は現在に伝えられています。
このような弾圧の続くなか、真宗信者は講(地域ごとの信仰者による集まり)を結成し、ひそかに山深い辺土や船上やガマ(洞穴)の中で法座を開き、また肥後水俣の源光寺や西念寺に聴聞に赴き、信仰を存続しました。花尾念仏洞、田島念仏洞、立山念仏洞など、現在も鹿児島、宮崎の各所にその遺跡は残存しています。(引用終わり)
念仏洞から下りると天気が回復、晴れ間も見えてきました。この後薩摩川内市東郷町の藤川地区に向かい梅を撮影しました。
雨はわずかでしたが、車の窓を開けるほど生暖かい一日でした。
以下の画像は17日に撮影したものです。
鹿児島市郡山町の花尾神社に参詣

境内山林の祠

丹後局の墓所

花尾神社は杉や雑木林に囲まれて昼間も薄暗く心落ち着く場所です。墓石や石塔、祠などが周囲の斜面に点在しています。秋分の日は大祭で伝統芸能が披露されにぎわいます。
杉落葉と椿

通り雨

集会所の大屋根軒下には2月12日の残雪がありました。昼前の通り雨で、雨垂れが勢いよく落ちてきました。雨垂れを見るのは久しぶりです。昭和30年代の麦わら屋根や雨樋のない頃、雨垂れが作る水の輪を眺めるものでした。
道を山手に進むと青い実が

道路脇の紅梅

花尾のかくれ念仏洞の入口

山道に分け入る

杉林の中を上る

もう一息

念仏洞に着きました

ここを訪れたのは10年ぶりほどです。山手に少し入ったところに駐車場、トイレ、休憩所が整備されています。
雨の杉山を上ること約6分、念仏洞に着きました。途中で息が上がりました。ゆっくりと上がれば15分ほどでしょうが、狭い階段道なので足元に注意が必要です。
禁制の厳しかった時代に夜陰に紛れてたどり着くのは、大変な苦労があったことでしょう。信仰の灯が今に伝わっていることは感慨深いものがあります。
岩穴の中に置かれた仏様

入口側を見る

案内板

薩摩藩では300年にわたり浄土真宗が禁止されていました。
浄土真宗西本願寺派鹿児島別院のホームページから引用して紹介します。
かくれ念仏の歴史
鹿児島に、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まります。
浄土真宗のみ教えが人々の間に流布すると、為政者による浄土真宗排斥の気運が生じました。それは「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い」という浄土真宗の教えが、当時の封建体制に相添ぐわなかったからです。そして真宗信者の結束力による統一的な行動が、政治的に利用され、一向一揆へと進展する危険性をはらんで、封建体制にとっては危険を感ずるものであったからと言われています。
以来、真宗信者の摘発は続きますが、慶長2年(1597)2月22日、第17代島津義弘によって正式に真宗が禁止されたのでした。
弾圧は厳しく、特に郷士層への摘発がなされ、身分を百姓へ移し、また居住地をも移すという処分が行われましたが、これは士分の削減と兵農分離政策をおしすすめ、近世的支配体制を確立しようとする薩摩藩の政策と大きく関係したものと思われます。
幕末期の天保6年(1835)、弾圧は極みに達し、この時期に摘発された本尊は2,000幅、門徒は14万人以上と言われ、弾圧と殉教の悲話は現在に伝えられています。
このような弾圧の続くなか、真宗信者は講(地域ごとの信仰者による集まり)を結成し、ひそかに山深い辺土や船上やガマ(洞穴)の中で法座を開き、また肥後水俣の源光寺や西念寺に聴聞に赴き、信仰を存続しました。花尾念仏洞、田島念仏洞、立山念仏洞など、現在も鹿児島、宮崎の各所にその遺跡は残存しています。(引用終わり)
念仏洞から下りると天気が回復、晴れ間も見えてきました。この後薩摩川内市東郷町の藤川地区に向かい梅を撮影しました。