浪漫飛行への誘(いざな)い

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仏教版 70歳からの「幸せ」

2022年06月29日 15時05分29秒 | 宗教

 

菊谷隆太氏による「仏教に学ぶ幸福論」のユーチューブで、仏教版 70歳からの[幸せ」というタイトルで、幸せについてのためになる講話があった。70歳からの人生、いかに幸せに生きられるか、輝くような人生にできるかというテーマであるが、そのためには、幸せへのアプローチを切り替える必要があるという。手に入れたいものを獲得するという達成感、満足感という幸せだけでは、だんだん体力も衰えてくるし、頭の回転も若い時ほどのようにできないので、その幸福感だけでは太刀打ちできなくなる。そこで、幸せへのアプローチを変えるということで、二つの幸福へのアプローチを紹介してくれている。ともになるほどと共感する教えであり、実生活でも実践したいと肝に銘じている。同年代の人に是非聴いてほしいものである。

1. 今そこにある幸せに気づく

ここは、個人的にも実感している幸せの肝であると思い、自分のためにもYouTube講話内容の文字起こしをしてみた。

『これは2年前か3年前だったと思いますけども、千葉県が台風か何かの影響で長期停電したことがありましたね。1日か2日か3日ずっと停電して家に電気が来ないという状態が、そこからようやく復旧した時にその千葉県の人がTwitterでツイートしたことがたちまち拡散されました。それは、こういう内容でした。「明るい部屋で、エアコンつけて、YouTubeで音楽聞きながら、見もしないテレビをつけてる。なんて幸せなんだろう。」こういうふうに書いたんですね。電気が当たり前だと思ってるときは、部屋は明るくて当たり前だし、エアコンも付いてて当たり前だし、YouTubeで音楽聞きながら、見もしないテレビを見ているということに別に幸福感は感じないんですけれども、二日も三日も電気が来ないとですね、いかにこの部屋が明るいということが幸せか、YouTubeで音楽を聴けるということが幸せかということが感じられるということですね。今まで、当たり前に思ってたことが決して当たり前じゃなかったんだということに気付くと人間は、この状態を幸せなんだなと感じるようになるんですね。

これもその一つだなと思ったのは、手塚治虫の自叙伝漫画の中にですね、日本が終戦を迎えたとその8月15日の夜に家に電気がともってると、それを見た時に手塚治虫はでしうね、ああ戦争は終わったんだ、平和になったんだということが初めて実感できて、踊り狂わんばかりに喜びがあふれたというふうに漫画の中に描いてありました。夜に家に電気がついてるっていうのは、今では当たり前の光景ですけども、これは平和でなければなかったことだと夜に明かりをつけてるとその明かりめがけてB29が爆弾を落としてくる、焼夷弾を落としてくると、こういう戦時中では夜になると電気を消してたんですね。それが終戦になって、もう空襲があることはないんだということで家に光が灯ったと、そこに幸せを感じたという手塚治虫の漫画でしたけども、これは戦争を経験した人の多くはそういうことを語るんですよね。まあ、私たちはもう平和が当たり前で、夜は電気をつけるのが当たり前になってますけども、決してそれも当たり前じゃないということです。

また、こんな歌の歌詞もありますけれども、心に残ったので紹介しますと、「“今日の晩御飯、何にする?”と妻が言い、“そうだな、何がある?”と僕は聞く、明日も明後日もこんな会話をし続けるものだと思っていた。」こういう歌詞も心に残ります。何気ないことじゃないですか、今日の晩御飯何にすると奧さんが言うと、そうだな何があると聞くと、こんな当たり前の何気ない会話が明日も明後日もずっと続くと思ってたけども、ある日突然なくなってしまうんですね、こういうことが、朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なりとこう仏教で言われますように、朝には赤ら顔で行ってきますと家を出た奥さんが夕べには死人の冷たい顔になって戻ってくると、こんなことも現実いくらでも起きてることです(蓮如上人の白骨の章)。今ではですね、皆さん奥さんがいて、そして夜寝ると寝息が聞こえてくると手を伸ばせば手を握ることもできる。温かい生きた手の感触が伝わってくる。それは決して、当たり前じゃないということです。いつかはこんな時期が幸せだったなと思う時が来るということですね。失ってみて初めてそのありがたみが分かると言いますけども、なかなか失ってみないと私たち分からないんだと思います。

仏教では諸行無常と言われますが、諸行というのは全てのもの、全てのものは続かないということですから、全てのものは、いつどうなってしまうか、分からないと、今日あって 明日はどうなってしまうかわからない、そういうものばかりだということですね。その現実を私たちは忘れて、この状態はいつまでも続くものだと、こう当たり前にしてしまってるから、自分の幸せに気づかないんだということですね。今、こうして、電気がいつでも ふんだんに使えて、テレビつけたり、スマホでYouTube聞けたりするのも当たり前じゃないし、こうして平和で爆撃のない街というのも当たり前ではないし、また夫婦が今日の晩御飯何にするというような会話を何気なくするというそのやり取りもまた当たり前じゃないんだと、今日あって明日はどうなるかわからないものなんだと、こう仏教では教えられているということですね。そうすると今こうしてこの生きて色々なことができることは決して当たり前じゃない、感謝すべきありがたいことなんだということになります。さっきの夫婦でもですね、たとえ事故ってことがなくても、人間の心って変わりやすいじゃないですか。だから、今はお互い支えあうという気持ちでおりますけれども、いつまで続くか分かりませんよ。どちらかの心が変わってしまうってこともあるかもしれませんから、ですから 今 五年夫婦としてやってこれたとか、十年やってこれたと言っても、それはすごく感謝しなきゃいけないことで、来年は 三年後はどうなってるか分かりません。どちらかの心が変わってしまうかもしれません。あるいは 生身の体ですから、どちらかが何かなってしまうかもしれません。今の幸せが3年後もずっと続くなんてことは誰も保証できません。だから、今こうしてお互い支え合っていける、お互い会話できる仲であるということは感謝しなきゃいけないことです。

日本は平和がもうこれで70年以上続いてるわけですけども、これも本当に世界でも珍しいんですね。70年以上1つの国で平和が続いてるというのは感謝しなきゃいけないことです。ご飯が美味しいと思えるならば、それもですね、感謝しなきゃいけないことで、ご飯を美味しく食べれない人たくさんいるんです。あるいは自分の足で歩こうと思えば、近くの図書館にでも近くの公園にでも行けるというのもこれまた幸せなことです。いつまでそれは続くか分かりません。それでも歩いてちょっとグラってよろめくとですね。近くで大丈夫かとこう言ってくれる人がもしあなたにいたとしたならば、それも幸せなとです。そんなふうに声をけてくれる人がいない人もたくさんありますし、また私たちも、いつそうなってしまうか分かりません。ですから、今この諸行無常の世の中にあってですね、このようにいろいろ恵まれていることを気づく、感ずるとこういう幸せの形があるんですよね。また、それを感じられてこそ私達は幸せを感じることができる。逆に、これを感じられなくなると、当たり前になると、不平や不満しかその人の人生には出てこなくなるということが言えますね。』

2. 次世代に残すという幸せ

70歳からの幸せの形として、もう一つ言えるのは、次世代に残すという幸せである。70まで生きてきたということは、今までいろんなことを学んできとこと、知ったこと、経験してきたことを次世代に残す、それを知らない人達にシェアする、そういう幸せである。気づいたこと、知ったことは、自分の格付けのためにあるんじゃなくて、人に手渡すためにあるということ。自分の知識や経験は、誰かを助けることをもって、その人の器なんだということである。仏教の教えでは、これを「自利自他」といって、他の人を幸せにすること、他の人の幸せに貢献することが自分が幸せになる道であるという。

 

70歳からの「幸せ」(約23分のYouTube講話): https://youtu.be/G2zKP7k5qOc

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「ありがとう」は最強の言葉~なぜ感謝すると幸せになれるのか

2022年05月24日 05時38分22秒 | 宗教

 

仏教講師である菊谷隆太さんは、自らのユーチューブ「仏教に学ぶ幸福論」で、ほぼ毎日、親鸞聖人の仏教(浄土真宗)の教えについて、語ってくれている。あまりに講話内容が豊富で、消化不良気味であるが、自分のHP上の仏教シリーズにいつでも聴けるようにリンクを貼っている。毎日拝聴するほどの余裕はないが、気になったタイトルがあるとなるべく聴くようにしている。親鸞の教えとか歎異抄がらみとか仏教の本質の教えから日常生活に役立つ仏教に学ぶ幸福論まで、幅広い分野をカバーしているが、どのユーチューブも、目に鱗というか役立つ内容ばかりである。HP上には、2019年5月から今日までのユーチューブのリンクを貼っているが、ほぼ毎日なので、全部で700回分は超えているものと思われる。1回につき、15~20分位の講話であるが、ほぼ毎日となるとその大変な制作作業は想像を絶するものがある。

この年になって、仏教の教えを学び始めているが、釈迦や親鸞聖人の教えを聴くたびに反省させられるばかりである。5月22日付の講話も「なぜ感謝すると幸せになれる~ありがとうは最強の言葉」というタイトルで、仏教の視点で感謝する心の大切さを訴えている。

目次として、

 1 ありがとうは最強の言葉

 2 感謝は即効で幸せをもたらす

 3 恩知らずの私はどうしたらいいのか

 4 如来への感謝

を掲げて、解説してくれた。1 のパートついて、文字起こしをしてみると。。。

『仏教では、私たちが幸せになれるよい行い、よい種まきの一つに「心施」というのが教えられている。お釈迦様は幸せの花が咲くこれは素晴らしい種だから大いにまきなさいと教えられている。この心施によって幸福がやってくるとお釈迦様は教えられている。「心施」という種が「幸福」という結果を表すという。この心施は、心から感謝の言葉を述べること。心から「ありがとう」と言うこと、これを仏教では「心施」という。「ありがとう」と感謝の気持ちを述べるということは、相手に自分の心を捧げるということである。この「ありがとう」という言葉は、実は最強の言葉である。

人を元気づけようと人を明るくさせようと思って、「褒める」ということがあるが、この褒め言葉は結構難しい。褒めるということは評価するということだから、ある意味その人を採点するということになるので、褒められた人は、今度はプレッシャーになって、できなかったら相手をがっかりさせることになる、今度は叱られるかもしれないと思うと委縮したりすることもある。そういう風に受け止める子供なんかもいる。あるいは褒めると何か下心があるのではないかという穿った見方をする人もいる。また、褒めると皮肉かと嫌味か?と特に自信のない人なんかは、褒めるとかえって皮肉で言われてんじゃないかと思って腹が立ってくるという人もいる。あるいは、わかってくれないと褒めるとそんなこと褒めてもらいたくないのにと自分のことをわかってくれていないなという気持ちで失望させるというケースもある。褒めたら元気になるだろうと思って褒めるというのは結構逆効果になってしまうケースもある。その点、最強の言葉、相手を元気づける最強の言葉は感謝の言葉である。「ありがとう」ということ言われて嫌と感じる人はいないし、嬉しくなるものである。

相手の心を受け取った気持ちになる。「ありがとう」と言われるのは、いかに相手を幸せな気持ちにさせるかっていうのは、次のデータからもわかる。

「ありがとう」は、

・言われてうれしい言葉 No.1

・次世代に残したい言葉 No.1

・夫婦仲が良い二人が使っている言葉No.1

この「ありがとう」という言葉が飛び交う職場とか家庭っていうのは、仲がよくて居心地がいい。この「ありがとう」という言葉がすぐに口からでるようになるにはどうしたらいいか。まず、恩を知るところから始めなければならないと仏教では教えられます。これを仏教では、「知恩」「感恩」「報恩」と言う。この報恩、ご恩に報いたいという気持ちから、「ありがとう」という感謝の言葉が出る、あるいは感謝の行動となる。報恩の心から起きるけれど、報恩の心は、まず「知恩」から始まる。恩を知ってその恩に感泣し、そのご恩に報いたいという気持ちになると、それが「ありがとう」という言葉である。「ありがとう」という言葉がよく出る人というのは、まずこのどれだけの恩を受けているのかを知るということから始まるということである。』

20分のユーチューブなので、是非とも最後まで聴いてみてほしい。最後にある「如来への感謝」は、恩徳讃という親鸞聖人を讃えた歌にもなっているので、これも是非聴いてみてほしい。「ありがとう」が最強の言葉であるということは、まさにその通りであると実感している。実生活ではこの最強の言葉がなかなか出ずいつも後悔する。Thank you.という軽い言葉は、すぐ口に出てくるが、「ありがとう」という言葉は意識しないと出てこないのである。まだまだ仏の域には程遠い感じである。ところで、「ありがとう」という言葉ですぐ思いだすのが、いきものがかりの「ありがとう」という歌で、大好きな曲である。自分にとっては、結婚式にからむお祝いの楽曲の定番となっている。

 

仏教に学ぶ幸福論(ありがとうは最強の言葉): https://youtu.be/io5uw9Jva3I

恩徳讃の曲(旧盤): https://youtu.be/FtgcKJmM37o

「ありがとう」(いきものがかり): https://youtu.be/VZBU8LvZ91Q

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新刊「歎異抄ってなんだろう」

2022年04月18日 20時44分15秒 | 宗教

 

人生の根源的な問いに答えを示し、世界を魅了しつづける名著『歎異抄』について、仏教や歴史の知識が全くない「はじめての人」でも理解し、答えにまでたどりつけるという入門書「歎異抄ってなんだろう」が昨年12月に発行された。図書館で借りて読もうかと思い、予約を入れていたが、なかなか順番が回って来ず、待ちきれずにヤフオクで購入することにした。定価は1760円だが、オークションなので、送料込で1480円で買えた。図書館では2週間しか借りられないので、この手の重要な書籍は購入して手元に置いておくことが正解であると判断した。

アニメ映画にもなった「歎異抄をひらく」(高森顕徹著)は、図書館で何回か借りて読み、アニメ映画も2回見たが、十分消化できていなかった。親鸞聖人の教えは、講座に参加したり、ユーチューブで勉強したり、初心者なりに一部をかじっているが、悟りを得るにはほど遠い感があるので、入門書的なもので再勉強したいと思っていたところ、この新刊が出たので、飛びついたものである。

歎異抄は親鸞聖人の教えの全体像をわかっている前提で書かれたものなので、教えの全体像を理解するのに役立つのがこの入門書である。この本では、教えの全体像が理解できるように、例え話がいろいろ紹介されている。例えば、すべての人は、2つの難病にかかっており、一つは治らない難病でもう一つは治る難病である。治らない難病とは、「煩悩」という難病で、すべての人は108の煩悩の塊である。時代・人種・年齢によって変わらないし、死ぬまで減りもしなければ、無くなりもしない。特に、三毒の煩悩と言われるのは「欲」「怒り」「愚痴」である。限りなく広がる「欲の心」のなかでも深くて強いのは、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲という五欲と呼ばれるものである。このような「欲」が妨げられると出てくるのは、「怒り」の煩悩である。次の「愚痴」の煩悩とは、「ねたみ」「うらみ」「そねみ」である。誰もが他人の不幸をひそかに喜ぶ醜い「愚痴の心」を持っているのである。

口や体に出さなければ、心で思うぐらいは良いのではと思いきや、仏教では、口や体の行いは、心の指示によるものであるから、「心」が最も重要であるという。仏の眼は心の奥底まで見通しているのである。親鸞聖人によると、すベての人は、煩悩という治らない難病に侵され苦しんでいる「心の悪人」であり、仏の眼から見られた悪人であるという。人間とは死ぬまで煩悩の塊であるといえる。親鸞聖人によると、人間の苦しみには、「根本」と「枝葉」の2つがあるが、一生治らない難病である煩悩は苦しみの枝葉であって、根本ではないという。苦しみの根元(根本)は「死後が暗い心の病」であるが、こちらは治る難病であると言い切る。すべての人の苦しみの根元は、「無明業障の病」(死んだらどうなるか分からない死後が暗い心の病であるが、この難病は生きている時に完治できる「治る難病」であると説く。死後の世界がわからず未来が暗いままでは、現在を明るくはできないのである。本書はこんな風に例え話でわかりやすく解説してくれているので、理解しやすい。すべての人は、「難病人」で、名医の案内者が「釈迦」であり、名医とは、「弥陀」のことであると解説が続いていく。我々素人にとってもわかりやすいので、しっかりと読み上げていきたい。

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「無財の七施」~誰でもできる人から好かれる7つの行動

2022年04月09日 22時03分56秒 | 宗教

 

「布施」とは、今日の言葉で言うと「親切」のことで、「人に与える」「人に施す」「人が幸せになるように自分のできることをして差し上げる」これを仏教では「布施」と言う。布施をする人は人に好かれるし、また、自分自身も幸せなれますよとお釈迦様は教えられている。お布施というと坊さんに払うお金のことだけを言うのはないかと勘違いしがちである。自分に与えるものがないと人に布施ができない、自分には人に与えられるようなものは何もないとか何か人のために尽くすなんてことはできないと思いがちであるが、仏教では、たとえお金や物がない人でも7つの親切ができるという「無財の七施」が「雑宝蔵経」というお経の中で教えられている。お金や物や力や知識がなくても心がけ一つで7つの親切で人を助けることはできるという。日常生活の中で、心がけ一つで人を幸せにできる、そしてまた自分も好かれ、自分自身も幸せになれるという。

「無財の七施」とは、

  • 眼施(げんせ)--- 和やかな眼差しで人と接すること。眼は心の窓。
  • 和顔悦色施(わげんえつしきせ)--- やさしい笑顔、和やかな笑顔で人と接すること。
  • 言辞施(ごんじせ)--- やわらかい言葉、やさしい言葉で人に接すること。挨拶
  • 身施(しんせ)--- 肉体を使って人のため社会のために働くこと。ボランティア。
  • 心施(しんせ)--- 心を施すこと。「ありがとう」という感謝の言葉を心から述べること。
  • 床座施(しょうざせ)--- 場所や席を譲り合う親切のこと。 
  • 房舎施(ぼうしゃせ)--- 訪ねてくる人があれば、一宿一飯の施しをして労をねぎらうこと。

仏教講師の菊谷隆太さんが、「無財の七施」について詳しく下記のユーチューブで解説してくれている。誰かのためになりたい、何かの役に立ちたい、という思いはあっても、自分なんか才能もないし、体力もないし、お金もないから、何の役にも立たないと落ち込むことがある。そんな思いに沈んだ時に知っておきたい仏教の教えが『無財の七施』という。自分としては苦手な教えで、反省するところが大であり、まさに「目から鱗」の感があり、仏教の奥深さも感じる。20分ほどの講話であるが、じっくりと噛みしめて聴きたいところである。

 

「無財の七施」の菊谷さんの解説: https://youtu.be/2ZudkE8sEZM

 

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4月8日はお釈迦様の生まれた日

2022年04月06日 19時40分51秒 | 宗教

 

お釈迦様ことゴータマ・シッダールタは、紀元前5世紀(6,7世紀説もある)の旧暦4月8日に、ネパールのルンビニという町で生まれた。釈迦族の王様、淨飯王のマーヤ夫人が出産で里帰りする途中、ルンビニ園という花園で、急に産気づいて、シッダールタを出産したと言われている。マ-ヤ夫人が園内で休息中、アショーカの木に咲く美しい赤い花に見とれ、花を折ろうと手を伸ばそうとした際、王妃の右脇から誕生したと言われている。夫人は出産して7日後に亡くなった。釈迦族の王子だったので、釈迦と呼ばれるようになったが、29歳で出家し35歳で悟りを開いたと言われる。生まれたばかりの王子は、七歩歩み、「天上天下唯我独尊」の述べたというのは有名な話である。この言葉は、一言で言えば、「人間にはかけがいのない生きる目的がある」という意味であり、自分独りが尊いとか偉いというのは完全な誤解である。4月8日には、各地でルンビニの花園にちなんで、「花まつり」の行事が行われている。ブッダ誕生に見る生きる意味については、エピソードを交え、仏教講師の菊谷隆太氏が興味深い講話をしてくれている。

このルンビニに旅行したのは、今から9年前の2012年3月のことで、カトマンズからイエティ航空の小型機でバイラワまで飛び、そこからハイヤーでルンビニまで足を延ばした。途中エベレスト等ヒマラヤの山々を機内から見ることもできた。ルンビニ園は、世界遺産にも指定されており、丹下健三氏の設計の基づき整備され、世界各国の寺院も建てられている。最大の見どころは、誕生シーンのレリーフ、アショカ王の石柱(紀元前3世紀にアショカ王が生誕の正確な位置を示すマーカーストーンを立てもの)、マーヤー聖堂(マヤデヴィ堂)、プスカリニ池(夫人が沐浴したところ)で、池の傍には、当時を再現した菩提樹が植えられている。

釈迦の生誕地ルンビニに加え、2014年4月には、イエス・キリストの生誕地ベツレヘムを訪問する機会も得た。イスラム教の創始者ムハンマドの生誕地メッカには全く興味がないが、仏教とキリスト教の創始者の生誕地に足を運ぶことができたことはラッキーであった。仏教という壮大な教えを肌で感じるためにも、ルンビニにも一度は訪れてみたい。

下の写真は、アショカ王の石柱とマーヤー聖堂とプスカリニ池

 

ブッダ誕生に見る生きる意味~菊谷隆太さんの解説(4/2): https://youtu.be/MI1aRtdQ2Ak

ルンビニ旅行アルバム(7.24~): https://youtu.be/owK_tzCjs3I

 

 

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火宅無常の世界~ウクライナ侵攻

2022年03月27日 09時49分25秒 | 宗教

 

歎異抄という日本の古典に火宅無常の世界という言葉がある。
家のひさしに火がつき、みるみるうちに障子やふすまが燃え、家屋全体が火に包まれてしまうように、私たちの生きているこの世は、思いもよらぬ事が突如として起き、何十年と大事にしてきたものも一気に崩れ去ることがある、常にそんな不安にさらされているのが人生の実態ですから「火宅無常の世界」といわれる。 

「歎異抄」は、親鸞聖人の教えを綴った鎌倉時代後期の仏教書である。作者は、聖人に師事した唯円で、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に沸き上がった親鸞の真信に違う異議・異端を嘆いたものである。700年も前の書であるが、今のプーチンによるウクライナ侵攻というウクライナ国民にとっての国難は、まさに火宅無常の世界を実証する。平穏な日常生活があっという間に一人の独裁者の狂気により、一気に崩れ去っていく情景を見ていると無常観を感じざるを得ない。

プーチンは、現世で、お金、財産、地位、名誉、健康、家族等全ての相対の幸福を得たかに見えるが、すべてが難度海に浮かぶもろくも崩れ去る丸太や板切れにすぎない。ロシアの大統領という大きな権力の丸太の上にどっかり居座り、正義ぶって独裁的な犯罪に走っているが、海に浮かぶ丸太は、簡単に一回転して、人を海に投げ出すのである。今のプーチンは、海に放り出された状態にあり、助ける者は誰もいない。自力本願に溺れ、正義の味方ぶっているプーチンは往生できず地獄へまっしぐらである。阿弥陀仏は、悪人でも絶対の幸福に救ってくれるが、信心のないプーチンは、絶対の幸福を得ることはできない。歴史上、ヒトラーを超える独裁者・殺人者として、永遠にその名前が刻まれることになる。戦犯として極刑になると思うが、何回処刑されてもウクライナ国民はもとより世界中の人々は絶対許さないはずである。

 

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磯長(しなが)の夢告

2022年03月19日 19時57分14秒 | 宗教

 

19日、歎異抄を学ぶ会のZOOMによる講座を受講したが、今回は親鸞聖人の生涯を描いたアニメの第1巻を鑑賞し、その解説も詳しく聴いた。このアニメは何回か見ているが、今回注目したのが、「磯長(しなが)の夢告」という聖徳太子の夢のお告げのエピソードである。親鸞聖人が仏門に入り10年目の19歳時の出来事である。磯長とは、現在、大阪府太子町の一部の歴史地名で、聖徳太子廟(墓)があるところである。この御廟は、太子を敬う空海、親鸞、日蓮等名僧が参詣し、日本の大乗仏教の聖地として栄えたが、周辺には推古天皇や孝徳天皇陵や小野妹子のお墓もあるという。

親鸞は19歳の時に比叡での求道に行き詰まり、崇敬していた聖徳太子の御廟へ3日間参籠され、生死一大事の助かる道を尋ねたが、太子から下記のようなお告げを受けたと自ら書き残している。

「我が三尊は塵沙の界を化す、日域は大乗相応の地なり、諦に聴け諦に聴け、我が教令を。汝が命根は応に十余歳なるべし、命終りて速やかに清浄土に入らん。善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。」

この言葉の意味は、「弥陀、観音、勢至の三尊は、チリのようなこの悪世の人々を救わんと尽力されている。日本は真実の仏法の栄えるに、ふさわしい所である。よくきけよ、よくきけよ、耳をすまして私の言うことを。そなたの命は、あと10年余りである。その命が終わる時、そなたは浄らかな世界に入るであろう。だから真の菩薩を、深く信じなさい、心から信じなさい」ということである。

その言葉の真の意味を親鸞自ら記しているが、「10年余りで死ぬ」とは、迷いの心が亡くなるということで、「速やか浄らかな世界に入る」とは、一念で絶対の幸福に救い摂られるであろうということで、真の菩薩とは、法然上人のことであったという。

親鸞は聖徳太子を崇拝していたことはあまり理解していなかったが、そのお告げ通り、29歳で比叡から降りて、法然のもとに弟子入りし、その後、万人を救ってくれる浄土真宗を普及させたことは有名である。このエピソードに接し、大阪府の太子町を訪れてみたい衝動にかられた。聖徳太子御廟は、四天王寺、法隆寺とならんで、太子信仰の中核となった叡福寺(えいふくじ)という寺院にあるという。今後行ってみたいスポットの一つとなった。聖徳太子の仏法精神については、菊谷隆太さんが詳しくユーチューブで解説してくれている。

写真は、聖徳太子廟

 

参考までに

聖徳太子の仏法精神: https://youtu.be/BrWIr8OZ0LU

 

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信行両座の諍論~親鸞の三大淨論の一つ

2022年02月13日 08時17分32秒 | 宗教

 

12日にZoomで親鸞聖人の文化講座を受講したが、今回は、親鸞の三大淨論の一つである「信行両座の淨論」についてであった。三大淨論とは、法然上人の弟子であった時に、法友たちと3回も淨いをされたことを言うが、「信行両座の淨論」とは①体失不体失往生の淨論 ②信心同異の淨論に次ぐもので、親鸞が34歳の時に、法然の許可を得て、法然門下の法友380余人と論争したものである。

「行不退の座」と「信不退の座」を設置し、不退(弥陀の救い)は、「行」(念仏)で助けるという誓いなのか、「信」(信心)」で救うという誓いなのか、どちらの座に入るかを380余人に問うたところ、 「信不退の座」に入ったのは3人だけで、他は皆「行不退の座」に入った。その後、親鸞は「信不退の座」に入り、最後に法然上人もそこに入ったのである。要するに、念仏だけ称えていればいいというものではなく、信心が大事であるという結論に、法友らは、驚きと師匠の前で恥をかかされ,後悔する形となった。要するに、誰もが救われる唯一の阿弥陀の本願(誓い)は、念仏で助けるという誓いなのか、信心で救うという誓いなのかということであるが、結論は信心ということである。

ちなみに、「体失不体失往生の淨論」とは、阿弥陀仏の本願の救い(往生)は、生きている時(不体失)と主張する親鸞と「死んだ後(体失)」だけと主張する善慧房との論争で、法然の裁定では、「弥陀の本願は生きているただ今、助けてくださる不体失往生である」ということで、親鸞が勝利したもの。また、「信心同異の淨論」とは、親鸞は「私の信心も、法然上人のご信心も、全く同一である」と述べ、聖信房ら3人の法友から猛反発を受けたが、法然は「私の信心は、阿弥陀の本願により賜った信心なので、同じものだ」といって親鸞を支持。師匠の法然上人の信心と同じになれないと主張する3人に対しては、各自の智慧や学問で築き上げた信心だから、同一にならず、自力の信心にすぎないとされたものである。

親鸞の教えというか仏教を真に理解するためには、この三大淨論は本質的な核心のようなので、十分理解しておきたいところである。それにしても、Zoomにょる講座や講演会は大変便利なものである。

絵の左側の信不退の座に座ったのは、「信空上人」「聖覚法印」「熊谷蓮生房」と「親鸞」と「法然」のみ。

 

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絶対やってはいけない信頼を失う言動3選【仏教版】

2021年02月12日 12時13分29秒 | 宗教

自分のHPにも掲載している菊谷隆太さんの「仏教に学ぶ幸福論」は、ためになる話ばかりなので、毎日欠かさず、拝聴している。仏教の勉強には最適であるが、ブッダの教え、親鸞の教えに基づく人生論、幸福論をいろいろな角度から語ってくれるので、大変勉強になる。ほぼ毎日か2日に1回という頻度で、YouTubeをアップしてくれるので、その精力ぶりには敬服する。

2/10は、絶対やってはいけない信頼を失う言動3選を仏教の教えから紹介していた。嘘をつくことと悪口・陰口を言うことは、当然のことなので、論外として除外した上での3選である。仏教版教えの3つとは、①約束を破ること ②八方美人 ③話を聞かない だという。詳細の解説は、YouTubeを聴いてください。

この講話を聴いていて、すぐに頭に浮かんだのは、嘘をつきまくってきたA元首相とS現首相である。3つの教えにも入らない前段のところで信頼を失う言動を続けてきたことである。最近の政局を見ていると、上の5つの信頼を失う言動について、政権与党の幹部・代議士、官僚等にとんと聴かせたい気持ちになる。いかに仏教の教えに背いて信頼を失う言動を続けている人達が多いことを痛感するが、振り返って自分自身も自戒、自制していく必要性があるとも感じる。仏教の教えは、いかに奥が深いかと感じている今日この頃である。菊谷さんの講話は、自分のHPでも紹介しているので、興味のある人がいたら覗いてみてください。

仏教に学ぶ幸福論~信頼を失う言動3選(YouTube) 2/10 :



自分のHP上での紹介:


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除夜の鐘と108の煩悩

2020年12月31日 11時14分51秒 | 宗教

煩悩とは、ウィキペディアによると仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ、智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言うとある。煩悩は心や体を煩わせ、悩ますもので、108種類あるとされるが、最も基本的かつとりわけ強力な煩悩は「三毒」と呼ばれる。「三毒」とは、①貪欲 ②瞋恚 ③愚痴 のことで、略して「貪瞋痴」とも言われる。わかりやすくいえば、「欲」「怒り」「愚痴」の三つで、形容詞で表すと、「欲」は「汚い心」、「怒り」は「恐ろしい心」、「愚痴」は「醜い心」といえる。

「貪欲」とは、欲の心で、なければないで欲しい、あればあったでもっと欲しいとキリがなく欲しがる心で、それを得るためには人はどうなってもいい、自分さえよければいい、自分さえ認められればそれでいいという汚い心である。欲の色は青に例えられるが、海は深いほど青みを増すことから、欲の深さを表している。特に強い欲を五欲といい、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲をさす。

「瞋恚」とは、怒りの心で、欲が妨げられた時に起きる。憎しみ、嫌うこと、怒ることで、思い通りにならないと腹を立てるという「恐ろしい心」である。怒りの色は、赤色に例えられるが、顔を真っ赤にして怒る、怒りの炎から来ている。

「愚痴」とは、真理を知らない愚かさからくる恨み、妬み、嫉み、憎しみという「醜い心」である。愚痴は黒色に例えられるは、汚い、醜い心からきている。また、「貪瞋痴」の3つの煩悩に、「慢」「疑」「悪見」を加え、六大煩悩の呼ばれることもある。「慢」は、慢心、傲慢な心、「疑」はよく考えもせず真理を疑う心、「悪見」は間違った見解を持つことである。

人間の煩悩は108個あるとされるが、なぜ108かということには諸説があるようである。四苦八苦の4x9 + 8x9 = 108という説が面白い。この煩悩を取り除くために、108回の鐘を突くと言われているが、今年は、近所のお寺でも、コロナ禍のため、除夜の鐘は僧侶だけで行うところばかりで、寂しい気がする。人間から煩悩は取り除くことは元々できないというのが仏陀の教えであり、我々は、「煩悩具足の凡夫(煩悩の塊の人間)」であるからこそ阿弥陀仏が絶対の幸福に救ってくれるのだと信じたい。

煩悩について、わかりやすく5分で解説してくれているアニメがあるので、是非、覗いてみて下さい。

5分でわかる煩悩(アニメ): https://youtu.be/SdFeCVtuIGQ





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