今回、覚如上人(親鸞のひ孫)の「改邪鈔」にある下記の言葉から、浄土真宗の極致とは何かについての解説をしてくれた。
「真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」
《自力》
・弥陀の本願を疑っている心
・後生暗い心(無明の闇)を破るという本願を疑っている心
・死ねばどうなるか分からぬ心
・旅立つ先がハッキリしない心
・悪い心をなんとかしようする心
・一念で無くなる心
《他力》
・弥陀の不可思議の願力
・自力の心を斬り捨てて極楽往生をハッキリさせてくださる力
即ち、浄土真宗の極致というか人生の目的は、自力を捨てて、他力に帰することに尽きるということであり、これ以上の教えはないという。死んだらどうなるかわからないという無明の闇を破り、阿弥陀仏の本願(約束)により、生きている時に絶対の幸福を得ることができることである。他力本願という言葉は、まさに阿弥陀仏の本願というありがたい言葉であるような気がしてきた。
歎異抄第5章には、「親鸞は亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかって称えたことはない。(現代語訳)」とある。4歳で父親、8歳で母親を亡くしているので、不思議な感もあるが、わざわざ「親鸞は」として、そのことを強調している。先祖とは一体どこまでをさすのかを考えると、1代前は両親、2代前は、両親の両親で4人、その前の代は8人、さらにその前の代は16人と数えていくと31代遡る(約800年)と対象者は、42億人にもなるというから驚きである。親鸞は、先祖供養の意味をこめて称える念仏をきっぱり否定しているが、その理由は下記の通りである。
①自分が悪人であることがハッキリし、自分のやった善で死んだ親を助けるということは到底できないこと。
②葬式や法事は親の喜ぶことではないこと。
親鸞自身、「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」と常に言っていたようである。近年、自分の死後の段取りをつける「終活」なるものが流行っているが、親鸞に言わせれば何かおかしいと映るであろう。「皆、肉体の葬式ばかり考え、それを教えているのが仏教だと思っているが、そうではない。仏法の信心を最も重く見るのが仏教である」という。
親の喜ぶこととは、①子供が正しく生きる ②子供が幸せになることである。
正しく生き抜き、真実の幸福になることが、親に対しての一番の恩返しになるのであり、葬式や法事やお墓参りや念仏は、親の喜ぶことではないのである。真の仏法を聞き、阿弥陀如来の本願に救われ、絶対の幸福を得ることが一番の先祖供養である。
今、ちょうどお盆の時期であるが、お盆とは、亡き先祖を救う日ではなく、今、現に、逆さに吊られて、飢え、渇き、苦しみ続けている自分自身を救うための日である。何十憶人もの先祖が皆お盆に帰ってきたらとんでもないことになる。お盆は、先祖が帰って来る日ではなく、先祖の御恩に感謝し、苦しみ続ける自分自身を救ってもらう日であることを肝に銘じるべきである。
約1年かけて、全6巻を鑑賞したが、飛び飛びで、それも1回だけではとても内容をしっかり理解したとはいえない。このアニメ映画は、大変よくできていて、我々、素人でもよく理解できるように工夫されているが、やはり何回か繰り返して鑑賞する必要がありそうである。親鸞聖人の教えを学ぶには最高の教材という印象があるので、今後も機会があったら、繰り返して鑑賞したいところである。
午後は、歎異抄にかかる講座がインターネット配信され、Zoomというシステムを使っての鑑賞となった。コロナ関連で、テレワークとかオンライン会議とかインターネット講座とかで名前は知っていたが、初めて利用することになった。その場にいなくても、十分に講座に出席したのと同じ効果があることを体験した。どんどん新しいものが出てくるのでボーッとしていると時流に乗れそこねることになりそうである。
メルマガでは、いろいろな切り口で親鸞の教えというか釈迦の教えを解説してくれるが、わかりやすくなるほどと思ったのは、第14回で説明されていた下記のたとえ話である。
「死んでいくときは、一人ぼっち」
温泉旅館に泊まると、きれいな掛け軸やインテリア、風光明媚な庭や清潔な布団などがあって気持ちいいが、どんなに「これいいな」と思ってもその日1日だけしか自分が自由にはできない。
旅館を出るときに「気に入ったから」といって部屋から持っていったら、窃盗罪で逮捕される。その日1日だけの、しばらくの所有物である。
考えてみれば、私たちが手にしている財産も地位も名誉もこの世にいる間だけ、しばらく自分のものになっているもの。
死んでいくときには全部置いて、丸裸でこの世を去らなければならない。一人ぼっちでどこへ行くのであろうか。
人と駆け抜け争い、手に入れて、「おれのものだ」と誇っていてもしばらくの間。夢幻のように消えていく、はかない一生の間だけのことである。
大金を手中にしたとしても、権勢をほしいままにしたといっても、歴史絵巻をクルクルと早送りボタンを押してみれば、温泉旅館の客の出入りさながらである。
朝、客が部屋を出ていけば、昼過ぎにやってくる次の客が使う部屋となる。その客も翌朝には出て行ってまた次の客の入ってくる準備が始まる。
どんな権力者とて、一夜の温泉宿の一介の客にすぎない。死んでどこへ旅立つのかも知らず。それなのに私たちはなぜ生きているのであろうか。
【必ず死ぬのになぜ生きる】
これこそお釈迦さまが出家された動機であり、親鸞聖人が仏門に入られた目的でもあり、我々が悟るべきそのものである。アニメ映画「なぜ生きる」(2016年)を見れば少しはわかるかなと思ったが、なかなかそうはいかない。映画には「蓮如上人と吉崎炎上」というサブタイトルがついている。800年前の親鸞聖人による浄土真宗が500年前の蓮如上人の時代に爆発的に広まったが、その時代背景において蓮如上人が布教の拠点としていた福井県にある吉崎御坊が1474年に放火され、炎上するという事件を通して、「なぜ生きる」の意味と考えていくものである。1回見るだけでは不十分ということで、2回目を見る機会を伺っているが、まだ東京での次の上映会が予定されていないが残念である。
映画「なぜ生きる」の予告編:
https://youtu.be/UAJ8-dZoL1g (42秒)
マンガでわかる親鸞聖人の教え「なぜ生きる」:
https://youtu.be/ffPw6IQwb2Q (6分40秒)
アニメ上映会の案内があったので、29日に見に行ってきました。このアニメは、全6巻で親鸞聖人の90年の生涯が紹介されており、初心者向けの仏教入門としては最適であると思われる。第2巻は、29~34歳までの親鸞聖人の出来事を解説してくれている。
29歳の時に、20年に及ぶ比叡山での修行に絶望し下山し、京都・吉水で法然上人と巡り会い、法然の弟子となったが、31歳の時に法然上人の勧めに従い、肉食妻帯を断行。肉食とは魚や獣の肉を食べること、妻帯とは結婚することであるが、それまでの仏教では、固く禁じられていたことなので、「破戒僧」「色坊主」などの誹謗攻撃を受け、大問題となった。これまでは、煩悩を断ち切って修行を積み重ねた出家した人だけが救われるという仏教であったが、親鸞聖人は、煩悩は無くせないことが前提で、常識破りの結婚を断行し、すべての人が絶対の幸福になれるという考えで仏教の普及を図ったものである、
34歳の時に、法然門下の法友、380人との大論争を起こした。仏教を正しく伝えるために妥協をしなかったのが親鸞聖人で、相手が法然の元に集った法友でも例外ではなく、三度も大きな論争をやっており、これを「三大諍論(じょうろん)」という。
第一は、「体失、不体失往生の諍論」 相手:善慧房証空(後に浄土宗西山派の開祖)
阿弥陀仏の本願の救い(往生)は、生きている時(不体失)と主張する親鸞と「死んだ後(体失)」だけと主張する善慧房との論争で、法然の裁定では、「弥陀の本願は生きているただ今、助けてくださる不体失往生である」ということで、親鸞の勝利。
第二は、「信心同異の諍論」 相手: 聖信房、勢観房、念仏房の3人
親鸞聖人は「私の信心も、法然上人のご信心も、全く同一である」と述べ、法然の弟子3人から猛反発を受けたが、法然は「私の信心は、阿弥陀の本願により賜った信心なので、同じものだ」といって親鸞を支持。師匠の法然上人の信心と同じになれないと主張する3人に対しては、各自の智慧や学問で築き上げた信心だから、同一にならず、自力の信心にすぎないとされた。
第三は、「信行両座の諍論」 相手: 法然門下の法友380余人
「行不退の座」と「信不退の座」を設置し、不退(弥陀の救い)は、「行」(念仏)で助けるという誓いなのか、「信」(信心)」で救うという誓いなのか、どちらの座に入るかを380余人に問うたところ、 「信不退の座」に入ったのは3人だけで、他は皆「行不退の座」に入った。その後、親鸞は「信不退の座」に入り、最後に法然上人もそこに入ったのである。要するに、念仏だけ称えていればいいというものではないとの結論に、380余人の法友は、驚きと師匠の前で恥をかかされたという恨みの後悔をしたのである。
わかったようなよくわからないような論争であるが、親鸞聖人がいかに優秀であったかがよくわかる。先日、親鸞聖人のアニメ映画「歎異抄をひらく」も見てきたが、親鸞聖人の教えはなかなか面白そうである。仏教のことはまるで素人だが、シルバー学級のつもりでしばらく親鸞や仏教のことを勉強してみようと思う。
6月4日に、シネマート新宿で、アニメ映画「歎異抄をひらく」を見てきました。最近、親鸞のことに興味を抱いて、講話なども聴きにいっていたが、いいタイミングで親鸞の教えを学ぶことができるアニメ映画が公開されたのである。親鸞聖人のキャスト(声)は、石坂浩二がやっていて、雰囲気がピタリであった。
「歎異抄」は鎌倉時代後期に書かれた仏教書で、作者は、親鸞の弟子の唯円(ゆいねん)といわれる。1~10条までは、親鸞の言葉を記し(口述筆記)、11~18条は、親鸞亡き後の異説の誤りを正している。親鸞の異説を嘆いた書という意味で、「歎異抄」と名付けられた。「歎異抄」は非常に誤解されやすい書物で、親鸞の教えをよく知らない者が読めば、誤読の危険性が大きいとのことで、8代目にあたる蓮如上人は室町時代、この本を封印し、江戸時代は世の中に出回っていなかったが、500年後の明治時代の末になって、やっと封印が解かれ、今になって広く知られるようになったとのことである。
この歎異抄を題材にしたアニメーション映画が今回の「歎異抄をひらく」である。
ストーリー展開はこうである。
「鎌倉時代、1200年代前半。貧しい農家に生まれながらも賢く利発な平次郎は、ある日、親鸞聖人と出会い、多くを学び成長していく。やがて京に戻った親鸞聖人を追って故郷を離れた平次郎は、「唯円」という名を授かり、仲間たちとともに親鸞聖人のもとで仏教を学ぶ。そんな中、かつての友人が苦境に立たされていると知った唯円は、なにもできない自分への無力感にとらわれ苦悩する。なぜ、善人よりも悪人が救われるのか? 人は、なぜ生きるのか? 「すべての人間が悪人であり、救われるために条件はない」という親鸞聖人の言葉の真意が、解き明かされていく――。」
歎異抄は、「どう生きるか」「なぜ生きるか」という身近なテーマに答えているが、意表を突く言葉が多いのが特徴である。その中で、最も有名なのが、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」である。 解釈をつければ、「善人でさえ幸せになれるのだから、悪人はなおさら幸せになれる」ということである。なぜ、善人よりも、悪人が救われるのか。逆に思えるが、この謎を解くには、「自分とは、いったい何者なのか」「何が善で、何が悪なのか」と、見つめていく必要があるとのことである。恐らく誰しもよくわからないと思われるので、映画を見て生きるヒントを得てみてはいかがですか?絶対お薦めというか、シニア世代必見の映画です。
映画の予告編: https://www.youtube.com/watch?v=MYGCRTtLpw4