7月27日、アニメ映画「親鸞聖人物語」の第3巻を鑑賞した。第3巻は、親鸞が35~40才の時のエピソードで、朝廷を巻き込むスキャンダル鈴虫・松虫事件を発端として、権力者や比叡山延暦寺と興福寺の他宗派の攻撃を受け、法然上人は土佐に、親鸞聖人は、越後(直江津)に流刑された頃を描いている。鈴虫・松虫事件とは、後鳥羽上皇に仕えていた鈴虫と松虫という姉妹の女官が容姿端麗で教養もあって、上皇の寵愛を受けていたが、京の町で辻説法する法然上人の弟子の住蓮房と安楽房から仏法の教えを聞いて目覚めた。姉妹はある日出家したいとのことで、夜更けに、僧のいる門戸を叩いたが、それが上皇の怒りを誘い、説法していた二人が死刑、法然一門は解散、法然と親鸞が流刑にされた。(承元の法難 1207年)
仏法の教えの一つが「難度の海を度する大船あり」である。難度の海とは、我々の一生のことで、苦しみ悩み波の絶えない海のようなものが人生である。難度の海には、丸太ん棒や板切れが浮いている。お金、財産、健康、名誉、地位、妻子、迷信などがそれである。丸太や板切れは海に浮かんでいるから、風や波に悩まされたり、運よく、それに乗ったり、掴まったりしても、くるくる回転して失なったり、裏切られたり、潮水を飲んで苦しんだり、溺れかかったり、溺死したりする人もおびただしい数にのぼる。空と水しか見えない海で、押し寄せる苦しみの波に翻弄されながら、金や財産、地位や名誉などの丸太ん棒や板切れ求めて、必死に泳いでいるのが我々である。
そんな人たちに、懸命に泳ぎ方のコーチをしているのが、政治、経済、科学、医学、芸術、文学、スポーツ、法律などである。まさに、「どう泳ぐか」「どう生きるか」をコーチしているだけである。しかし、「どこに向かって泳ぐのか」「なぜ、生きねばならないのか」 肝心な泳ぐ方角、人生の目的が明らかにされていないのである。行く先を知らずに泳いでいる人は、やがて力尽きておぼれるだけです。しかし、難度の海には、大きな大きな船がある。誰でも乗れるし、70億、全人類が乗ってもいっぱいになることはない。そんな船を阿弥陀仏が作ってくれたのである。この大船のみが裏切らない、難度の海を明るく渡してくれる船なのである。その船に乗せることが阿弥陀仏の本願である。目的を知らずに生きている人は、死ぬために生きているようなものである。大事なのは、人生の目的、何のために生きるか、「なぜ生きるか」である。
飛行機に例えると、我々は飛行機に乗っている、生まれて気が付いたらもう飛行機に乗っている。この飛行機は、いつ墜落するかわからないが、100%確実に墜落する。襲ってくるトラブルを回避しながら、飛行を続け、機内では安全に快適に楽しく長く生活することをめざし、まさに「どう生きるか」に奔走する。飛行機は必ず墜落するが、いつ、どこにかが全くわからないため、不安な毎日を過ごすことになる。降りるところ(目的地)を見つけることが一番大事、後生の一大事であり、行先がわかれば、安心して生活できるというもの。人は必ず死を迎えるが、老少不定(老人が早く死に、若い者が後で死ぬとは定まっていない)なので、「なぜ生きるか」、後生の一大事を解決することが重要であるという。まだ、アニメ映画「なぜ生きる」を見ていないので、どうしたらよいかよくわかっていない。なるべく早い機会に映画を見たいと思っている今日この頃である。宗教の勉強って以外と面白い。
画像: 難度の海で連想したのが葛飾北斎のこの浮世絵。