浪漫飛行への誘(いざな)い

海外旅行は102か国、海外旅行、世界遺産、飛行機、卓球、音楽、歌謡曲、初物、語学、仏教シリーズ等の趣味の世界をブログに

2つのクリスマスイベント

2012年12月24日 23時43分42秒 | イベント
クリスマスならではの2つのイベントを見に行った。1つは、22日に大井町のアトレで行われたアテンポハンドベルリンガーズのハンドベルによるクリスマスコンサート、もう1つは、24日に羽田空港で行われたJALグループ合唱団によるミニコンサートである。

ハンドベルとは、17世紀頃にイギリスでキリスト教の教会のタワー・ベルを何人かで技巧練習するために生まれた楽器で、その音色はクリスマスの雰囲気にピタリである。知り合いの女性がメンバーの一人であることもあって、生でベルの音色を聴くのは2回目であったが、クリスマスソングを奏でる美しい音色にしばし酔いしれた。

合唱団のコンサートは、羽田空港のクリスマスイベントの一つとして、行われたもので、客室乗務員や整備士のユニフォームを着た人を含め、30人位のJALグループのメンバーから成る「フロイデ」という合唱団が赤鼻のトナカイやホワイトクリスマス等のクリスマスソングを披露してくれた。やはりこの時期にクリスマスソングを生歌で聴くのは最高の気分である。

わざわざ羽田空港まで行ったのは、先日京急蒲田駅の全線高架化記念乗車券を買っていたが、切符を使わないのはもったいないので、それを利用したものである。久しぶりに第1ターミナルに行ったが、マーケットプレイスなるものができていて、いろいろなお店があるのにビックリ。飛行機に乗る目的ではなく、ぷらっと空港に遊びに行くのもいろいろな発見があり、なかなかなものである。
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久し振りの観光ボランティアガイド

2012年12月20日 20時23分31秒 | 英語
19日、久し振りに英語による観光ボランティアガイドをやった。ニューヨークの大学で国際関係論を教えているという49才のアメリカ人男性で、日本への初めての訪問だという。本人に聞いてみると、講演をするためにシドニーに行く途中に日本に立ち寄ったとのことであった。

事前に本人に希望を聞いたところ、観光ガイドブックに載っていないような東京の街の界隈を見たいということであった。なかなかむずかしい注文であったが、友人から荒川の都電に乗ってはどうかとのアドバイスを受けたと聞いたので、いろいろ考えた末、次のようなルートで案内することにした。

ホテル(新宿)→浅草(羽子板市、浅草寺、浅草神社)→都電乗車(三ノ輪橋から庚申塚)→巣鴨のとげぬき地蔵→江戸六地蔵→六義園→東京駅赤レンガ→ホテル

浅草はガイドドブックに載っている東京の一番の名所であるが、ガイド日が年1回の羽子板市とたまたま重なっていたので、強く勧めたもので、後は、外国人旅行者があまり行かないところを選んだつもりである。赤レンガは本人が新幹線の切符の件で東京駅に行きたいというので、急遽追加したものである。

JR、地下鉄、都電といろいろな乗り物に乗ったが、ガイドをしていていつも質問されるのは、どうして多くの人が白いマスクをしているのかということである。マスク着用の姿は、外人旅行者にとってはとても奇異に映るようである。

羽子板市のためか、浅草寺界隈は相当な人が出ていたが、羽子板のお店や屋台も多く出店していて、活気があり、本人も喜んでいた。浅草の居酒屋で海鮮丼や焼き魚付きの和定食の昼食を食べた後、懐かしのチンチン電車による30分の旅を楽しんだ。沿線の街並みは風情があるが、線路沿いにバラがいっぱい花を咲かせていたのに感嘆していた。

とげぬき地蔵では、洗い観音を水で洗い、本尊の姿を刷った有名な「御影」(痛いところからとげを抜き、病気平癒に効験があるとされる、5枚入って100円)を買ったりした。江戸六地蔵は、1700年代の初頭、江戸からの街道沿いの市中の六箇所に造立された銅造の地蔵菩薩像で、現在は5つのみ現存しているが、4番目の像が巣鴨の旧中山道沿いにある。(ちなみに1番目の像は、旧東海道沿いで我が家のすぐ傍にある)

東京の古い街並みを眺めた後は、柳沢吉保が1702年に築園した和歌の趣味を基調とした大名庭園として有名な「六義園」を散策した。茶屋で抹茶と和菓子をいただき、人もまばらな静寂の中で、江戸を代表する大名庭園の風情を楽しんだ。

東京駅では、丸ビル5階の有名なビューポイントからライトアップされた新しい東京駅の美しい姿を楽しむこともできた。天候に恵まれたものの、この冬一番の寒さということで、使い捨てカイロも持ちながら、一日中東京の街を散策し、万歩計の数字も2万歩を超えていた。

このボランティアガイド、あくまでボランティアなので、報酬は取れないが、ガイド中の電車賃、昼食代、入場券代等はすべてゲスト持ちなので、ほとんどお金をかけずに東京の街中の散策をいっしょに楽しめ、英語のネイティブスピーカーと英語を話す機会を持てるので、変な英会話学校に行くよりはるかに役に立つものである。

久し振りのボランティアガイドであったので、多少緊張したが、楽しい1日を過ごすことができた。今度ニューヨークに来ることがあったら、是非案内させてほしいとも言われたが、このような形で世界中に友達の輪を広げることができたら実にすばらしいことである。

もし、興味のある方がいれば、検索でTokyo Free Guideを検索してみてください。
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刑期を終えて早5年

2012年12月17日 07時33分02秒 | 人生

刑期を終えて早5年になるが、人生を刑期に例えると、生まれてから大学卒業までは、勉強という試練はあるが、自由気ままなシャバの世界。22才から就職すると、そこから長い刑期が始まる。60才定年とすると、懲役38年となる。

服役生活は、収入もあり3食付で生活は安定しているが、決まりや制約事項も多く、課せられた仕事をこなすのに精一杯で、好き勝手に遊ぶ自由になる時間が限られる。優良な服役者は、刑期を迎える前に、シャバに出ることもできるが、シャバに出ると自由な時間はたっぷりあっても、3食付の安定した生活が保障されているわけではないので、それなりに勇気もいる。

また、刑期を終えても、安住した服役生活に慣れてしまい、シャバに出る時期を遅くする人がいるが、自分の経験では全く理解できない。服役中にきちんと仕事をせずに、蓄えもあまりなく、刑期を遅くせざるを得ない人はある意味では可哀想である。

人生80年としても、刑期を延ばす人は、シャバの世界での自由な生活期間を短くするだけである。やっとシャバの世界に戻り自由を得て、やりたいことをやろうと思った時は「時すでに遅し」で、病に倒れたり、恍惚の人になるのが落ちである。回りを見ても刑期を終える前に、また、終えた直後に亡くなる人も少なくない。

「やりたいことは先延ばしにしないですぐにやる」これが今実感していることである。明日はどうなるかわからない年になっている人は、ぬるま湯の安定した生活を卒業して、1日でも早く刑期を終えることである。現在まだ服役中の人は、頑張って仕事に励み、1日も早く刑期を終えることをめざすべきである。

刑期を終えて早5年になるが、もっと早くに終えることができたらよかったのにと後悔の念もある。年金以外に収入はなく、3食付の安定した生活とは言えないが、好きなことを好きな時にやれる今が人生で一番いい時であると実感している今日この頃である。
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無償の愛、モンロビア行きの列車

2012年12月16日 08時53分07秒 | 旅行

現役の頃、社内で福岡の南蔵院の住職である林覚乗さんを招いて、講演会が行われたことがあった。その講演会の模様が収録されたビデオを見る機会があったが、涙なしでは見られないほど、あまりにも感動的な内容であった。

講演会のタイトルは、「無償の愛」ということで、愛はもちろん、その他の行為でも、代償や見返りを求めるものではないということがテーマである。

現実にあった話を軽妙な語り口で話を進めていくので、ついつい話の中に引きずり込まれ、涙なしでは話を聴くことができなかったことを覚えている。その一部を紹介すると。。。

簡単な挨拶の話では、会社の廊下ですれ違った人に対して、大きな声で「おはようございます。」と言ったとする。「おはよう」とお返しをしてくれる人もいるが、全く挨拶をしない人もいる。でも住職によれば、お返しの挨拶を求めて、挨拶をすべきではないとのことである。挨拶しない人をけしからんと思うのではなく、大きな声で挨拶ができた自分を褒めてやってほしいということである。

あと有名な「モンロビア行きの列車」という実話も披露された。そのストーリーは以下の通り。

戦後間もない頃、日本人の女子留学生が一人、アメリカのニューヨークに留学した。戦争直後の、日本が負けたばかりの頃なので、人種差別やいじめにもあった。そして、とうとう栄養失調になってしまい、病院に行ったところ、重傷の肺結核だと言われた。当時、肺結核は死の病と言われた。思い余って医者に、どうしたらいいか聞いたところ、「モンロビアに行きなさい。そこには素晴らしい設備を持ったサナトリウム(療養所)があるから」と言われた。飛行機がまだ発達していない時代、ロサンゼルス近郊のモンロビアは、ニューヨークから特急列車で5日間もかかる距離だった。

当時、汽車賃さえない彼女は、死ぬよりはましだと、恥ずかしい思いをして、知人や留学生仲間に頼み込み、カンパしてもらって、列車のお金を集めた。しかし、食料までは手が回らず、3日分を集めるのがやっとだった。治療費は、日本にいる両親が、家や田畑を売り払ってもなんとかするから、という言葉を証明書代わりに、列車に乗った。

列車では、発熱と嘔吐が続き、満足に食事もできなかったが、それでも、とうとう3日目には、食料がつきてしまった。そして、なけなしの最後に残ったお金を出し、車掌にジュースを頼んだ。ジュースを持ってきた車掌は、彼女の顔をのぞきこみ、「あなたは重病ですね」と言った。彼女は、「結核となってしまい、モンロビアまで行く途中ですが、そこまで行けば、もしかしたら助かるかもしれない」、ということを正直に話をした。車掌は、「ジュースを飲んで元気になりなさい。きっと助かる」とやさしい言葉をかけてくれた。

翌日の朝、車掌が、「これは私からのプレゼントだ。飲んで食べて、早く元気になりなさい」と言って、ジュースとサンドイッチを持ってきてくれた。4日目の夕方、突然車内に放送が流れた。「乗客の皆さま、この列車には日本人の女子留学生が乗っています。彼女は重病です。本部に連絡し、この列車をモンロビアで臨時停車いたします。朝一番に止まるのは、終着駅のロサンゼルスではありません」。

次の日の夜明け前に、モンロビアに臨時停車し、気づかれないように静かに駅に降りたところ、そこには車椅子を持った看護婦さん達が数人待機していてくれた。車椅子に乗せてもらい行こうとしたら、なぜか列車がざわざわしているので、振り返ってみてびっくりした。全ての列車の窓と言う窓が開き、アメリカ人の乗客が身を乗り出して口々に何か言っていた。最初は、日本人である自分に何か嫌なことを言っているのかと思ったが、そうではなかった。名刺や、住所や電話番号を書いた紙切れなどに、ドル紙幣をはさんだものが、まるで紙吹雪のように、投げられた。

「死んではいけない。きっと助かるから、安心しなさい」「人の声が聞きたくなったら、私のところに電話をかけてきなさい」「手紙を書きなさい。寂しかったら、いつでもいいよ」と口々に声をかけてくれていたのだ。彼女は、4.5メートル先に停(と)まっているはずの列車が涙で見えなかったという。

結局、3年間入院したが、その間、毎週毎週、見知らぬアメリカ人が見舞いに来てくれたが、これも列車の乗客だった。そして、3年間の膨大な手術費と治療費を払って出ようとしたら、乗客の中の一人のお金持ちがすべて匿名でお金を払った後だった、という。

これはアメリカであった実話ですが、人種を超えて、人として、なんとかあの女性を助けたい、自分にできることをしてやりたいと、多くの人が手をさしのべてくれたのです。これがボランティアの原点ではないでしょうか。
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懐かしのグループサウンズ特集

2012年12月09日 23時13分51秒 | 音楽

自分のHPの音楽シリーズのところに「懐かしのクループサウンズ特集」を追加しました。もう40年以上も前にはやった曲ばかりで、懐かしいかぎり。青春プレイバック、あの頃はよかった。。。当時を懐かしく思い出しています。懐かしい人も多いのでは?

HP:   http://romanflight.web.fc2.com/  ⇒ 音楽シリーズ
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