浪漫飛行への誘(いざな)い

海外旅行は102か国、海外旅行、世界遺産、飛行機、卓球、音楽、歌謡曲、初物、語学、仏教シリーズ等の趣味の世界をブログに

河津桜を観るバスツアーに参加

2018年02月28日 00時08分25秒 | 旅行
毎年、この時期になると河津桜のことが話題に上り、いつか行ってみたいと思っていたが、ついに実現した。当初1泊で計画し、個人で行くか、ツアーに入るかいろいろ研究してみたが、ツアーの方が安く上がるということが判明し、クラブツーリズムの1泊2日のツアーに申し込んだが、後になって、人数が集まらないとの理由による催行中止のメールを受け取った。しかし、催行中止の理由が人数が集まらないというのは極めて怪しい。2月25日出発なのに、中止の通知は、1月24日。まだ、一か月もあるのに集まらないとして中止するのはあまりにも不自然。恐らく、別の理由(東京マラソン?)ではないかとみている。

催行中止を受け、やむを得ず、26日のはとバス日帰りツアーに変更した。日帰りにしたことで、当初の予算の半分以下になった。8時に浜松町を出発し、11時前には、伊豆フルーツパークに着いて、早めのランチ。
しらす釜まぶし御膳(1512円)というなかなか豪華なランチであったが、レストランには同じような昼食が多数セットしてあり、訊いたら 約1000人分だという。平日なのにそんなに繁盛しているのかとビックリした。会場からは、富士山の上半分の雪に覆われたところだけがはっきり見えて、感動的であった。

ランチの後は、バスで5分のところで、いちご狩りを行った。30分食べ放題で、主な品種は「紅ほっぺ」だが、その他の品種もあり、食べ比べもできた。いちごの粒が大きく、数多くは食べられなかったが、それでも、小さめのものも混ぜ、40個位は食べたと思う。いちご狩りの料金は、料金表によると1836円となっていた。いちごは大好きなので、久しぶりではあったが、満足した30分であった。

いちご狩りの後は、石川さゆりの歌にもある「天城越え」で、浄蓮の滝に立ち寄った。歌詞にも出てくる浄蓮の滝は、高さが約25mでそんなに大きい滝ではないが、日本の滝百選にも選ばれている。滝壺の岩には天然記念物の「ハイコモチシダ」が群生している。「天城越え」の歌碑や川端康成の「伊豆の踊子」の像もある。バスはくねくねと天城峠を越えて行くが、なかなか雰囲気がある風景であった。

浄蓮の滝からさらに南下すると今回のメインの河津桜まつりの会場に到着した。少し、早めに到着したので、現地で約90分の自由時間が取れた。平日とはいえ、天候にも恵まれ、河津桜もついに見頃を迎えたタイミングであったので、かなりの観光客が押し寄せていた。河津川沿いに850本、町全体では8000本もの河津桜が咲き誇っているという。川沿いの開花状況は、6~8分咲きだが、海に近い方ではほぼ満開、個人宅にある河津桜原木は、超満開で、まさに町全体がピンクに彩られていた。

河津桜の花見は初めての経験であるが、約60年前に地元在住の飯田さんという人が桜の若木を枯葉の中に発見し、自宅の庭先に植えたのが始まりだと知ってビックリ。新品種であったようであるが、そんな偶然がなかったら、今の河津桜はなかったと考えると感慨深いものがある。河津桜は、ソメイヨシノに比べるとはるかにピンク色が濃く鮮やかで美しい。ソメイヨシノに慣れているので、ピンクの花びらには感動さえ覚える。

90分では、すべてを見ることは到底無理であるが、やや駆け足ながら、北は、河津桜トンネル、豊泉橋界隈及び河津桜原木、中央の笹原公園を通って、南は館橋界隈までほぼほとんどを見て回ることができた。 

今回の日付は相当前に決めたが、まさに見頃に的中に、それも太陽が出るほど天候にも恵まれたのは、大変ラッキーであった。平日でも相当混雑しているので、週末を考えるとぞっとする。長年気になっていた河津桜であったが、本当に行ってよかったとの思いである。はとバスツアーは初めてであったが、若くて可愛い感じのガイドさんもよかったし、ツアー料金もすべて含め、9000円行かなかったので、リーズナブルであったといえる。

早速翌日には、撮った写真を約7分のスライドショーにしてYouTubeにアップした。音楽は、石川さゆりの「天城越え」と森山直太朗の「さくら(独唱)」を使ったので、臨場感のあるアルバムが完成した。また、テレビ報道によると河津桜もそろそろ寿命を迎えつつあるようで、河川関係の条例で植え替えも禁止されているとのことなので、まだ行ったことがない人は早い機会に見に行かれることをお薦めする。


写真  色づく河津桜並木
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東京マラソンを生観戦

2018年02月25日 14時33分08秒 | スポーツ

 

東京マラソン当日(2018 2/25)東京にいたので、久しぶりにテレビでじっくり見るとともに、品川の折返し地点まで自転車で行き、沿道での生観戦とあいなった。マラソンコースが昨年から変更されたとのことで、品川の折返し地点は品川駅前からかなり泉岳寺方面に行ったところに移動されていた。やはり沿道での観戦は一瞬ではあるが、迫力がある。35㎞地点なので、即、家に戻って、テレビでトップ選手のフィニッシュにぎりぎり間に合った。

設楽悠太選手(Honda)が2時間6分11秒で第2位に入り、高岡寿成が持っていた日本記録を16年振りに更新し、大会を盛り上げた。天候等の好条件が揃ったのかも知れないが、まさに快挙であった。日本実業団連合からご褒美として、1億円の報奨金がもらえるという話題性もすごい。

皆が高揚感に浸り、感動している中、試合直後にインタビューが行われたが、これが見るに堪えないほどひどかった。まず、直後で選手が皆疲れているのに、インタビューが長すぎる。選手達は寒空に震えているようで、可哀そうであった。それに、惜しくも優勝は逃したが、快挙を成し遂げた設楽選手に対し、「前に一人選手がいたが、何が自分に欠けていたと思うか?」というような大変失礼な質問をしていて腹が立った。平昌オリンピックの女子フィギュアフリーの宮原選手に対し、インタビュアーによる「残念な結果になりましたが」発言があったばかりなので、インタビューの仕方の重要性も強く感じた。

東京マラソンについては、まだ現役の頃、少々関わっていたので、思い入れも強い。第1回は2007年に行われたが、それまでは東京国際マラソン(日本テレビ、フジ交代制)、東京国際女子マラソン(テレビ朝日)いうマラソンが別々に実施されていたので、新たに東京マラソンというエリートマラソンと市民マラソンを同時に行うマスマラソンということに対し、いろいろ生みの苦しみがあったと思う。放映はフジテレビと日本テレビが交代でやっているが、その経緯とも深く関わっている。ともかく、今の人気ぶりを見るに東京マラソンの導入は大成功であったといえる。

東京マラソンの事務方トップのS氏やレースディレクターとして活躍しているH氏とは一緒に仕事をしたことがあるので、東京マラソンの興隆ぶりを見ると大変嬉しい思いである。第1回大会には、自分の子供も市民ランナーとして参加したので、スタート地点でもフィニッシュ地点でも生の感動をもらったものである。
今回日本新記録も出たほど高速コースともなっているので、2020年のオリンピックに向けて、ますます発展していくことを願っている。


YouTube: 折返し地点を通過するトップ選手達

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古希の誕生日に1円ホテル宿泊、スカイツリー初挑戦計画

2018年02月21日 20時43分55秒 | 人生

ついにまもなく古希を迎えることになった。定年後のあっという間の10年であったが、何かをしなければならないというプレッシャーから解放され、自分のやりたいことが自由にできるというまさに極上の10年でもあった。この自由人生活がもっと若い時にできれば最高であるが、そうもいかないのが現実である。でも、定年後にずるずると仕事を続けなくてよかったと思っている。

この10年を総括すると、まず、定年の4日後には、カナダのビクトリア大学に語学留学し、夫婦で約半年の海外ロングステイを経験した。定年の寂しさや感傷などかけらもなく、20代の若い女性に囲まれての充実した留学生活であった。コンドミニアムでの生活も快適で、延べで100人以上のゲストを招き、まさに先客万来であった。当初は遊学のつもりでいたが、宿題やテストもあり、この年になって、あんなに勉強するとは予想だにしていなかったが、合間を見て、ゴルフ、テニス、旅行三昧という充実した毎日でもあった。

帰国後は、昔からやっていた卓球を再開し、地元の卓球クラブに入り、今でも週3回は卓球で汗を流している。英語の方も、上達はできなかったが、留学経験を生かし、外国人旅行者向けにボランティアでの観光ガイドを4年位やっていた。個別にアテンドするというガイドだったので、面白かったし、大変貴重な経験を得ることができた。

また、定年時、海外旅行が59ヵ国で、惜しくもゴルフで言うエイジシュートに1ヵ国足らなかったので、定年後は、リベンジではないが、自由時間を最大限に活用し、精力的に海外旅行に出かけた。現在、101ヵ国まで来ているので、この10年間で新たに42ヵ国を旅したことになる。1年間で約4ヵ国というペースだが、行きにくい国や人があまり行かない国しか残っていないことを考えるとよく行ったものだと我ながら感心する。特に、自分の好きなヨーロッパの53ヵ国すべてに足を踏み入れることができたことは何よりも嬉しい成果であった。

また、暇に任せて、2004年から始めていた自分自身のホームページを拡充し、楽しみながら、音楽、旅行、初物、語学、卓球等趣味の世界を記録として整理していたが、今は、終活の一環として、音楽と写真を組み合わせたデジタル自分史をホームページ上で集大成し、ほぼ完成しつつある。旅行アルバムを中心に、幼少期から現在までの写真はすべてデジタル化し、音楽を付けて、300件以上も、YouTubeにアップしているので、昔のアルバムを子供に捨てられても、生きた証は残るものと考えている。

古希を迎えるという節目の誕生日をただ何となく過ごすのは癪なので、まず、誕生日には、まだ上ったことがないスカイツリー近くのホテルに1円で宿泊させてもらい、夜は、スカイツリー前の東京ソラマチの31階にある天空LOUNGE TOP of TREEでバースディディナーを祝い、天候次第だが、当日か翌日にスカイツリーの展望台に初挑戦する予定である。1円で宿泊できるホテルは、70才以上で誕生日当日のみ利用できる特別優待を全国ベースで行っていることを知っていたので、その資格を得て今回はじめて利用させてもらうものである。ホテルの特別サービスに深く感謝するとともに、思い出に残る記念日としたい。

この10年間は、大きな病もせず、なんとか健康寿命を保ってきたことに感謝したい。しかし、明日はどうなるかは全くわからない年になっているので、フランス語で言えば、“Vivre maintenant”(今を生きる)をモットーに、やりたいことは先延ばしにしないですぐにやるという主義でやっていきたいと考えている。この年になって、ますます「人生の扉」(竹内まりや)の歌詞が身にしみてきている。


人生の扉) クリック

 ~じっくり歌詞を味わってほしい~

春がまた来るたびひとつ年を重ね
目に映る景色も少しずつ変わるよ。。。
信じられない速さで時が過ぎ去ると知ってしまったら
どんな小さなことも覚えていたいと心が言ったよ。。。

満開の桜や色づく山の紅葉を
この先いったい何度見ることになるだろう
ひとつひとつ人生の扉を開けては感じるその重さ
ひとりひとり愛する人たちのために生きてゆきたいよ。。。

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オリンピック金メダリストとの出会い

2018年02月17日 15時39分06秒 | スポーツ

 

平昌オリンピックも半ばを向かえ、やっと羽生結弦が金メダルを獲得した。2連覇ということで、まさに快挙であるが、やはり金を取るということはもの凄いことだと改めて認識した。夏、冬合わせて多数の日本人金メダリストがいると思うが、個人的に二人の金メダリストと知り合うチャンスがあった。

一人目は、フランクフルト駐在中に父の知り合いからの紹介で交流のあったロサンゼルスオリンピック(1984年)の体操の金メダリストである。彼は、金メダルを取ったご褒美として、1986年頃からドイツのチュービンゲンに留学していたのである。体操の本場というか、発祥の地はドイツなので、留学先としてドイツを選んだそうである。今は知らないが、当時はオリンピックで金メダルを取ると本人の希望で海外留学ができたとのことである。同時期には同じプログラムで柔道の山下泰裕さんがイギリスに留学されていた。

見知らぬ土地に留学されていたということもあって、我が家族との交流も若干の息抜きになっていたのかも知れないが、我が家に来たり、彼の家に遊びに行ったり、親しく交流させていただいた。知り合いになったことから、勝手なお願いで、フランクフルト在住の日本人向けに、講演会も開かせていただいた。演目は、「突破!突破!限界への挑戦」で、同タイトルで本も書かれている。彼は、アキレス腱の断裂や足首の骨折などの大ケガを克服して、金メダリストまで上り詰めた努力家であった。入院中に足は動かせないが、手は使えたので、怪我を逆手に腕の筋力を鍛えるチャンスと捉え、その後、腕力を使う種目が得意になったと言っていたことをよく覚えている。何事もピンチをチャンスと捉えるポジティブな姿勢が大事だと痛感している。

二人目は、アテネオリンピック(2004年)のハンマー投げの金メダリストである。彼とは、現役時代に仕事を通じて知り合うことになった。当時、国際競技連盟の選手役員の立候補にあたって、英文で彼の履歴書を作ったり、立候補PRの書類を作ったり、出張の手配をしたりのお手伝いをしていた。2000年のシドニーオリンピック以降、彼の使用していた日本製のハンマーに異論を唱えるある国が中心になって、ハンマーのハンドルの形状について、ルール改正の動きが出てきた。要するに、彼があまりに強いので、彼の不利になるようルールを改正しようとしたのである。

それに対抗して、彼と連携し、不利にならないように再提案をしたり、ルール改正の延期を働きかけたり、国際会議の場で、我々なりの努力も行った。そのかいもあってか、2004年の段階では、まだルール改正は完全には適用されなかったことやドーピング失格者が出たこともあって、見事、金メダルを獲得したのである。彼は、英語も上手だし、国際感覚も見につけているので、2020年の東京オリンピックでも要職を担っているが、将来的には、国際競技連盟の日本代表の役員として活躍してもらいたいと願っている。

「アジアの鉄人」と言われた彼のお父さんとも仕事を通じて交流させていただき、お二人から年賀状もいただいており大変恐縮している。お忙しい方達なので、お会いできるチャンスもなかなかないが、陰ながら活躍を応援している。

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パソコンのサービスセンターの対応に不信感

2018年02月14日 20時34分57秒 | パソコン
昨年、10月に新しくNECのデスクトップパソコンを購入したが、データ移行の作業に関連し、NECの121コンタクトセンター及びマイクロソフトのアンサーデスクに電話で何度も問い合わせすることになった。ともにフリーダイヤルなので、電話代を心配しないで済んだが、その対応や情報提供にはかなり不満を残した。

まず、NECでは、動画ファイルのDVDへの書き込み作業中にパソコンがフリーズし、ウィンドウズが起動できなくなってしまった。DVDへの書き込みには時間がかかるため、離席していたが、戻ったら、パソコンがフリーズしていたのである。 すぐに、NECのコンタクトセンターに相談したところ、スタートアップを修復するメニューを紹介され、そのいくつかを試したが、どれもうまく行かず、最終的な回答は以下であった。

「初期化するしか復旧の方法はない。初期化してもうまく行かない場合は、ハードの故障と考えられるので、パソコンを送り返してもらえれば無料で修理する。」ということであった。初期化ということは、折角旧パソコンから移行したデ-タがすべてパーになるということを意味するので、しばらく初期化の作業を躊躇していた。その間は、壊れかかっていた旧パソコン(HP)をだましだまし使っていたが、すぐに処分しなかったことはラッキーであった。

何とか初期化しないでパソコンを復旧できないかとネット上にあったいろいろな方法をアトランダムに試していたが、ある日突然、パソコンが起動し始めた。どの作業が功を奏したのか不明であるが、事実として、パソコンが動き出したのである。NECから死の宣告を受けていたので、まさに、葬式の最中に、棺桶の中から起き上がったようなものである。アドバイスに従い、慌てて初期化なんかしなくてよかったとの思いである。

NECに復旧した旨、電話したところ、スタートアップ復旧には、いくつかの方法があるが、NECでは、その内、二つの方法しかサポートできないので、その方法で駄目なら、初期化しかないとの案内になったようである。しかし、現実には、どの方法が効いたのかわからないが、復旧することもあるということである。 そうであれば、初期化するしかないとの冷たい回答ではなく、自己責任でいろいろやってみてはどうかとの親切なアドバイスをしてほしかったものである。復旧してからは、パソコンの電源をオフにするのが怖く、スリープ状態にして使っている。データのバックアップをしっかり取ってから電源オフをやってみようと考えている。

次に、マイクロソフトのアンサーデスクからの情報についても疑問符が残るものが二つあった。第一は、microsoftアカウントなるもの。旧パソコンは7年位前のもので、当時microsoftアカウントなる概念がなかったと思うが、新しいパソコンを購入した時、ウィンドウズ10の初期設定にそのアクントが必要であった。どうも当初のメールアドレスが、microsoftアカウントとみなされ、初期設定にあたって、そのメールアドレスに本人確認のメッセージを送ると案内された。

ところが、当初のメールアドレスはすでに変更しているので、本人確認のメールを受け取ることができず、設定業務ができなくなった。他に携帯でも本人確認ができるとあったので、携帯による本人確認をしようとしたら、今度は、別のところから本人確認が来たから一か月間、当初のmicrosoftアカウントを凍結するとの通知があった。一か月何もできないなんてとんでもない話なので、やむを得ず、新しいアカウントを作ることにより対処した。マイクロソフトは、セキュリティにこだわりすぎていて、ウィンドウズの初期設定もできないという致命的問題があるように思われるが、アンサーデスクからもそれに対する明確な説明は未だに得ていない。

第二は、ムービーメーカーという大変すぐれた写真や動画の編集ソフトのことである。ウィンドウズ7では、このソフトが内蔵されていて、重宝して使っていたが、10では削除されてしまったのである。ソフトの単独販売もされていないので、今まで便利に使っていた者にとっては、悲劇そのものとなった。アンサーデスクからは、ムービーメーカーはもう使えないので、他のソフトを探してほしいという冷たい回答があった。ネット上でいろいろ探したら、有料のものから無料のものまでいろいろあり、何を選んでいいか全くわからないので、しばらくの間、死にかけた旧パソコンのムービーメーカーを使って対処していた。

ほとんど諦めていたが、ひょんなことでパソコンの画面上にムービーメーカーの表示を見つけ、まさかと思ったが、そのアイコンをたどっていったら、何と機能していたのである。従来と全く同じように、ム-ビーメーカーが使えたのである。マイクロソフトの説明は一体何だったのであろうか?旧パソコンは、ウィンドウズ7を10にアップグレードして使っていたので、ムービーメーカーのソフトも利用できたが、新パソコンは最初から10なので、ムービーメーカーは使えないという説明に納得していた。新パソコン購入時、市販の引越しソフトを使って、データとプログラムの移行を試みたが、あまりうまく行かず、後から手作業でやり直したりしていたが、もしかするとその引越しソフトが功を奏し、旧パソコンのムービーメーカーのプログラムが新パソコンにも首尾よく移行されたのかも知れない。とにかく、マイクロソフトは絶対使えないと言い張ったが、事実としては使えているのである。諦めて新しいソフトに飛びつかなくてよかったといえるが、マイクロソフトへの不信感はぬぐえない。

上記のことから言えることは、パソコンの専門家でもあまりわかっていないこともあるし、その説明を頭から信じ込まないほうがいいということである。自分の場合、結果オーライであったが、逆もありうるので、注意を要する。新しパソコンを買って、4か月になるが、古いパソコンも壊れそうでも何とか使うことができるので、すぐに処分せず、今後も併用して使って行こうと思っている。
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オリンピックとNHKのテ-マソング

2018年02月12日 11時26分35秒 | 音楽
平昌オリンピックも競技が始まり、テレビではNHKのテーマソングが毎日流れはじめてきた。今回のテーマソングは、SEKAI NO OWARIの「サザンカ」という曲で、まだ3日目だというのに、だいぶ聴き慣れてきた。音楽というのは不思議なもので、何回も聴いていると、親近感が生まれ、つい口ずさむほどになるが、この曲のメロディもすでに脳裏に焼き付き始めている。

今までの、NHKのオリンピックテーマソングは、1988年のソウルオリンピックから始まったようであるが、どのテーマソングもアーティストがいいし、いまだに心に響くいい曲が多い。今でも、その曲を聴くとオリンピックのシーンがすぐ浮かぶほど不思議なパワーがある。2008年からはパラリンピックでも使われているようであるが、ここ20年のテーマソングを列挙してみると、いかに素晴らしい曲が使われているかがよくわかる。

2000年  シドニー   
Get U’re Dream」 ZARD

2004年  アテネ    
栄光の架橋」   ゆず

2008年  北京     
GIFT」   Mr. Children

2010年  バンクーバー  
BLESS」  L’Arc~en~Ciel

2012年  ロンドン   
風が吹いている」 いきものがかり

2014年  ソチ   
今、咲き誇る花たちよ」 コブクロ

2016年  リオ     
Hero」   安室奈美恵 

2018年  平昌    
サザンカ」 SEKAI NO OWARI

2020年  東京    ???

どの曲も、大好きであるが、スポーツの祭典にマッチしていて、曲を聴くたびに感動が蘇ってくるから不思議である。ヒットチャートの上位にランクされる曲も多いので、いかに名曲が多いかがわかるというものである。個人的には、スポーツ関係のアルバムのYouTube作成にあたって、これらの曲をサウンドトラックとして使わせてもらい、重宝している。2020年の東京オリンピックでは、アーティストが誰で、どんな曲がテーマソングになるかが楽しみの一つである。
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平昌五輪で札幌オリンピックを思い出す

2018年02月10日 19時03分30秒 | スポーツ
ついに、平昌オリンピックが開会したが、テレビを見ていて、急に1972年に札幌で行われたオリンピックのことが思い出されてきた。1970年に入社し、最初の勤務地が千歳で、まさに1972年のオリンピックは自分にとってもビッグイベントであった。北海道に足を踏み入れたのも初めてであったが、入社して約1年半経っていたので、ちょうど慣れてきた頃でもあった。

当時、オリンピックに参加する選手や役員を乗せたチャーター便が何機も直接千歳に乗り入れた。当時、千歳空港は、国内線のみの運航であったので、臨時に国際線のハンドリングをするのは大変といえば大変な業務であった。東ドイツから、Interflug(インテルフルーク)の航空機が直接乗り入れ、雪の降る中、ハンドリングしたことを今でも鮮明に覚えている。国際線を取り扱うことで業務知識が増え、大変勉強になったともいえる。

オリンピック期間中は、大変忙しく、競技自体を見に行く機会はなかったが、スキー70m級ジャンプ(今のノーマルヒル)で日の丸飛行隊が、金、銀、銅のメダルを独占した瞬間は、ちょうど会社でテレビを見ていてものすごく感激したことを覚えている。フィギュアスケートでジャネット・リンという若くて可愛いアメリカ娘が大活躍して、銅メダルを獲得したことも話題になった。

大会の最終日には、札幌の真駒内にあった選手村に選手・役員の方々の手荷物を取りに行ったこともよく覚えている。帰路の空港では、皆が集中して混雑が必至であったので、荷物だけ先に事前チェックインし、混乱を回避しようというものであった。今となっては、懐かしい思い出となっている。

当時、オリンピック開催に合わせ、テーマソングのような音楽が流行っていた。一番印象深いのは、トワ・エ・モアが歌う「虹と雪のバラード」である。まさに、ピタリの楽曲で、今でも、その曲を聴くだけで、当時に青春プレイバックする。石原裕次郎の「恋の町札幌」もオリンピックに合わせて作られたヒット曲であった。そのB面の「ポプラと私」という曲は、札幌グランドホテルのコマーシャルソングに使われたもので、ともに、浜口庫之助の作品であるが、大好きな曲の一つである。

調べてみたら、札幌オリンピックの参加国は、35ヵ国で参加人数も約1000人だったそうである。今回の、平昌は、92ヵ国、約3000人であることを思うと隔世の感がある。今ではレジェンドと呼ばれるあのスキージャンプの葛西紀明選手ですら、まだ生まれていなかった時である。それを考えると我々は化石と言われるかもしれないが、46年の歳月の重みを感じる今日この頃である。

写真は、当時のインテルフルークのチャーター機

音楽は、「虹と雪のバラード」 

映像は、ジャネット・リンの演技

https://www.youtube.com/watch?v=tW1uV_a3ShI
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平昌オリンピックがついに開催

2018年02月09日 21時42分21秒 | スポーツ
北朝鮮の突然の参加により競技外の話題でマスコミを賑わせている平昌オリンピックがついに始まった。開会式が始まり、92ヵ国の国と地域の選手が参加していることを知った。全世界では204のIOC加盟国があるので、半分以下であるが、それでも冬季オリンピックとしては過去最大の規模だという。どんな国が参加しているか興味があって調べたところ、92ヵ国の内、自分が行ったことがない国と地域は下記の20カ国であった。

アルゼンチン、バミューダ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル、エリトリア、ガーナ、
イラン、ジャマイカ、ケニア、マダガスカル、モンゴル、ナイジェリア、北朝鮮、パキスタン、
南アフリカ、東ティモール、トンガ、トーゴ

年も年なので、これからあと何か国行けるかわからないが、モンゴルは今年、あとは南米の主要国には2-3年のうちに、行きたいと考えている。

昨今の政治情勢から、韓国と北朝鮮が統一旗を持って、合同で入場行進するなんて、全く想像していなかったので、いざその姿を見ると感慨深いものがある。金正恩の妹の金与正氏が開会式に姿を見せていることもまさに驚きである。世界は政治的にはどうにもならない一触即発の情勢であるが、やはりスポーツの世界は純粋に素晴らしい。まさに平和の祭典である。スポーツの恣意的政治利用は好ましくないが、このオリンピックを機に世界平和の方向に早く向かってほしいものである。

また、オリンピックでは、北朝鮮からの美女応援団も楽しみにしている。13年前に、韓国のインチョンで美女応援団を間近で見ているので、いっそう興味深い。テレビでも紹介しているが、本当に美女というか可愛い感じの娘が多く、バッチリ揃って応援していた姿が懐かしく思い出される。あれから、13年も経っているので、全員新しいメンバーだが、その美女振りをテレビで改めて見てみたい。また、時差がないだけに寝不足にならずに競技も見られるので、時間の許す限り、テレビで楽しもうと考えている。
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東京都の観光ボランティア

2018年02月06日 20時37分48秒 | ボランティア
2020年のオリンピック開催もあって、東京都では、「東京都観光ボランティア」の活動を通じて、東京を訪れる外国人旅行者に東京の魅力を紹介する活動を推進している。ひょんなことで新規の観光ボランティアを募集していることを知り、応募(自分は英語)したところ、無事合格したので、先日都庁で行われた新規登録者研修に参加してきた。

今回は300人程度が合格(書類選考のみ)したようであるが、どういうものかよくわからないまま参加した。行ってみると、若い人から我々シルバー世代までいろいろな年齢層であった。研修の内容は、1部はボランティア活動の概要説明、2部は多様な文化等への対応をふまえた「おもてなし」についての講義、3部はすでに活躍しているボランティアリーダーによる体験談の紹介があった。2部の講師は、元客室乗務員で日本CA協会会長の女性で、表情の大切さやおもてなしのポイント等役に立つ内容であった。

今回の研修でわかったことは、観光ボランティアは、オリンピックに向けて、東京都が新たに募集しようとしている都市ボランティア(約3万人)の中核を担ってほしいということであった。オリンピックについては、他に、8万人規模の大会ボランティアを募集するようである。壮大な計画であるが、本当にその体制が整うか若干心配でもある。

なにげなく応募した観光ボランティアであるが、その具体的業務内容は、小池さんが都知事になってすぐ、テレビでも取り上げられた新しいデザインのユニフォームを着用して、浅草とか上野とか銀座とか新宿とかで「街なか観光案内」を行うことから始めるということであった。二人1組で外人観光客からの問い合わせに答えたり、困っていそうな人に声掛けして、助け舟を出したりすることが主な仕事であるようである。

数年前まで、外国人観光客につきあって、都内の観光のお供をするというボランティアガイドを少しやっていたので、同じようなものかと思っていたが、当初描いていたイメージとは異なるので、若干戸惑いもある。ユニフォームの着用は気恥ずかしい気もするが、オリンピックを控えて、何らかのお手伝いをしたいと考えているので、その一歩としてはいいかも知れない。

個人的経験から、海外旅行が100ヵ国を超えていること、仕事としてスポーツ関連業務を9年もやり、プロトコール(要人接遇)業務の経験もあること、自分で卓球やテニスのスポーツをやっていること、観光のボランティアガイドの経験もあること、ガイド通訳の国家資格も保有していること等を考えると、何らかのお手伝いはできると思うし、積極的に協力すべきであると自分に言い聞かせている。月に最低1回は業務をやってほしいとのことであるが、忙しい毎日を送っているので、それがちょっと心配でもある。

写真は、ボランティアガイドのユニフォーム
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医療費控除の確定申告手続の改定

2018年02月03日 10時41分09秒 | マネー
毎年、2月に医療費控除の申請を行っているが、所管の税務署から確定申告のお知らせというハガキが昨日届いた。毎年やっているので、単なる案内と思い、なにげなくハガキに目を通したところ、今年から申請方法が変更されると書いてあり、ビックリ。

今年から医療費控除は領収書の提出が不要となり、代わりに「医療費控除の明細書」の提出が必要となったと書いてある。但し、その領収書は5年間保存する必要があるとのこと。この案内を読んで、すぐ頭に浮かんだのは、例の森友問題で領収書は1年で廃棄することが当然だという財務省理財局と国会答弁でウソをつきまくり、首相への忖度の功績で国税庁長官になった佐川氏のことである。

確定申告制度のトップ責任者は、まさにあの佐川長官であり、就任した年に領収書を5年も保存させるような制度改定を実行するとは、なんという皮肉なのか、はたまた、確信犯かも知れない。自分たちは平気で領収書や都合の悪い文書は廃棄するが、善良なる国民には領収書の5年保存を要求するとはたいした度胸である。

「医療費控除の明細書」については、どんな 内容のものか一切ハガキには書いていないので、どこからかもらうものか、自分で作成するものかもわからない。作成するならどういう内容の明細書なのか全く不明である。電話で問い合わせると、サンプルが国税庁のホームページに掲載されているが、PDF形式なので、パソコンでは作成できず、手書きを強要しているようである。

今までは、パソコンで自己流の明細書を作成していたが、作成項目も違うし、新たに作り直す必要がある。ホームページからダウンロードして使ってくださいとあるが、今時、所定のフォームに手書きするなど考えられないし、時代錯誤も甚だしい。パソコンで記入できる方式を採用すべきである。

また、経過措置として向こう3年間は従来の方式での申請も認めると書いてある。要するに医療費の領収書を提出することで申請してもいいということだが、今後は、明細書1枚で申請することができるから、わざわざ領収書を提出する必要がないと国税庁は胸をはっているようである。 しかし、抜き打ちチェックなのかアットランダムなのか知らないが、事後5年以内に領収書をチェックするかもしれないので、保管しておけと警告しているのである。

もし、実際の医療費が2万円だとしても、明細書上、100万円として申請すれば、ノーチェックでそれに見合うお金が戻ってくる。何年か後に、国税庁の調査が入った時に、領収書は紛失してしまったと主張したらどうなるのであろうか?金融庁では、紛失どころか廃棄することが当然だと説明しつづけているのだから、いくらでも抗弁できそうである。特に、向こう3年間は、領収書に水増した自己流の明細書をつけて、申請すれば、その場でもノーチェックだし、事後も明細書だけで申請した人のみがチェックの対象となるはずなので、チェックをくぐり抜けることができる。そんな悪い人が出ないことを祈るが、そんなことを国税庁はわかっているのであろうか?

今回の改正は、明細書の作成が面倒になるし、不正を誘発する可能性もあるし、事後チェックにかかる国税庁スタッフにかかる経費も考えると疑問符が残る。誰も領収書はすべて保管、整理して、医療費控除の申請をしているはずなので、従来通りで何か不都合なのか理解できない。不審な点があるなら、事後ではなくその場でチェックすれば事足りる。今でも、作業効率の観点で、ほぼノーチェックなので、摘発したいなら、きちんとチェックすればいいはずである。領収書の提出を求めない代わりに手間ひまかかる複雑な明細書の提出を押し付けるのは本末転倒である。今の国税庁長官がそういう対応をしてきたということを考えると、何とタイミングの悪い制度改革であろうか?


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