今から約30年前、フランクフルトで勤務していた時、縁あって長野県松本市にある日本浮世絵博物館の協力を得て、浮世絵の展覧会と摺りの実演を行う機会を得た。日本浮世絵博物館の収蔵品は江戸時代の豪商であった酒井家5代200年にわたる「酒井コレクション」が中心となっており、収蔵数ではボストン美術館よりも多いそうである。当時、酒井家は外国での展覧会を精力的に行い、浮世絵の普及を図っていたが、たまたまフランクフルトに立ち寄った際、我々に展覧会の開催がもちかけられ、1988年11月に実現したものである。
浮世絵には個人的には興味はあったものの、当初はドイツ人向けに展覧会を企画するなんてとても実現できそうもないと感じていたが、今から考えるととんとん拍子に話が進み、浮世絵の展示に加え、ドイツ初となる摺りの実演も行うことになった。日本からは、酒井氏と秘書と摺師の3人が来独し、1枚あたり1000万円を超えるような貴重な浮世絵も含め、20~30枚位の浮世絵を展示することになった。あまりにも高価な浮世絵については保険もかけ、毎晩展示終了後金庫に保管する体制をとったほどである。
約2週間の予定であったが、展覧会や実演のことが地元の新聞に掲載されたこともあり、連日多くのドイツ人が来場し、期間を1週間延長することになった。期間中、摺りの実演も何回か行い、多くのドイツが興味を持ったようである。この展示会にあわせ、浮世絵の無料鑑定サービスも行ったが、浮世絵を所有しているドイツ人が意外と多いのにビックリしたものである。
展示品の目玉の一つはあの有名なゴッホが模写したという歌川広重の作品2点の本物の展示であった。「名所江戸百景・亀戸梅屋鋪」と「名所江戸百景・大はしあたけの夕立」の2点であるが、比較するために、ゴッホの作品のコピーもアムステルダムのゴッホ美術館から取り寄せて比較展示した。
江戸時代の作品と同じものを現代に彫って摺った浮世絵の販売も1枚100マルク(約8000円)程度で行った。印刷したものではなく、江戸時代と同じ手法で実際に彫って、摺ったものなので、それなりに素晴らしい出来ばえの浮世絵であった。展覧会終了後も暫くは販売を継続し、ベルリンの事務所オープンの際にもこれを借用して浮世絵の展示を行った。
酒井家の人たちとは帰国後も継続的にお付き合いをさせてもらっており、1990年には松本の日本浮世絵博物館にもお邪魔する機会を得た。印象的だったのは、関係者以外立ち入り禁止となっている大なき倉庫を見学させてもらい、そこにものすごい数の浮世絵が収蔵されていたことである。特に、大きなつづら数個の中に多数の春画が収蔵されていたことにも驚いた。本物の美しさは表現のしようもないが、酒井氏によると物が物だけに国内で展示する機会がないのが残念であると嘆いていた。海外で展示会をやることは可能だが、日本に持ち帰れなくなってしまうとも言っていた。
酒井コレクションとの出会いから浮世絵についての知識も大分詳しくなってきた。浮世絵の美しさは本物を見るとよくわかるし、ゴッホが模写したくなるのも頷ける。浮世絵は西洋の絵画にジャポニズムとして多大な影響を与えたが、その魅力は計り知れない。浮世絵は江戸文化の最高の傑作であると言えよう。
酒井氏から現代版浮世絵を十数枚いただいたので、今でも我が家のリビングや廊下の壁には歌川広重や葛飾北斎や写楽の作品を飾ってあり、時々作品の入れ替えも行っている。富嶽三十六景や東海道五十三次の風景画や歌舞伎役者から歌麿の美人画までどの浮世絵を見ても心が和み、江戸文化を身近に感じることができる。
写真は、「名所江戸百景・亀戸梅屋鋪」の広重の浮世絵とゴッホの模写