菊谷隆太氏による「仏教に学ぶ幸福論」のユーチューブで、仏教版 70歳からの[幸せ」というタイトルで、幸せについてのためになる講話があった。70歳からの人生、いかに幸せに生きられるか、輝くような人生にできるかというテーマであるが、そのためには、幸せへのアプローチを切り替える必要があるという。手に入れたいものを獲得するという達成感、満足感という幸せだけでは、だんだん体力も衰えてくるし、頭の回転も若い時ほどのようにできないので、その幸福感だけでは太刀打ちできなくなる。そこで、幸せへのアプローチを変えるということで、二つの幸福へのアプローチを紹介してくれている。ともになるほどと共感する教えであり、実生活でも実践したいと肝に銘じている。同年代の人に是非聴いてほしいものである。
1. 今そこにある幸せに気づく
ここは、個人的にも実感している幸せの肝であると思い、自分のためにもYouTube講話内容の文字起こしをしてみた。
『これは2年前か3年前だったと思いますけども、千葉県が台風か何かの影響で長期停電したことがありましたね。1日か2日か3日ずっと停電して家に電気が来ないという状態が、そこからようやく復旧した時にその千葉県の人がTwitterでツイートしたことがたちまち拡散されました。それは、こういう内容でした。「明るい部屋で、エアコンつけて、YouTubeで音楽聞きながら、見もしないテレビをつけてる。なんて幸せなんだろう。」こういうふうに書いたんですね。電気が当たり前だと思ってるときは、部屋は明るくて当たり前だし、エアコンも付いてて当たり前だし、YouTubeで音楽聞きながら、見もしないテレビを見ているということに別に幸福感は感じないんですけれども、二日も三日も電気が来ないとですね、いかにこの部屋が明るいということが幸せか、YouTubeで音楽を聴けるということが幸せかということが感じられるということですね。今まで、当たり前に思ってたことが決して当たり前じゃなかったんだということに気付くと人間は、この状態を幸せなんだなと感じるようになるんですね。
これもその一つだなと思ったのは、手塚治虫の自叙伝漫画の中にですね、日本が終戦を迎えたとその8月15日の夜に家に電気がともってると、それを見た時に手塚治虫はでしうね、ああ戦争は終わったんだ、平和になったんだということが初めて実感できて、踊り狂わんばかりに喜びがあふれたというふうに漫画の中に描いてありました。夜に家に電気がついてるっていうのは、今では当たり前の光景ですけども、これは平和でなければなかったことだと夜に明かりをつけてるとその明かりめがけてB29が爆弾を落としてくる、焼夷弾を落としてくると、こういう戦時中では夜になると電気を消してたんですね。それが終戦になって、もう空襲があることはないんだということで家に光が灯ったと、そこに幸せを感じたという手塚治虫の漫画でしたけども、これは戦争を経験した人の多くはそういうことを語るんですよね。まあ、私たちはもう平和が当たり前で、夜は電気をつけるのが当たり前になってますけども、決してそれも当たり前じゃないということです。
また、こんな歌の歌詞もありますけれども、心に残ったので紹介しますと、「“今日の晩御飯、何にする?”と妻が言い、“そうだな、何がある?”と僕は聞く、明日も明後日もこんな会話をし続けるものだと思っていた。」こういう歌詞も心に残ります。何気ないことじゃないですか、今日の晩御飯何にすると奧さんが言うと、そうだな何があると聞くと、こんな当たり前の何気ない会話が明日も明後日もずっと続くと思ってたけども、ある日突然なくなってしまうんですね、こういうことが、朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なりとこう仏教で言われますように、朝には赤ら顔で行ってきますと家を出た奥さんが夕べには死人の冷たい顔になって戻ってくると、こんなことも現実いくらでも起きてることです(蓮如上人の白骨の章)。今ではですね、皆さん奥さんがいて、そして夜寝ると寝息が聞こえてくると手を伸ばせば手を握ることもできる。温かい生きた手の感触が伝わってくる。それは決して、当たり前じゃないということです。いつかはこんな時期が幸せだったなと思う時が来るということですね。失ってみて初めてそのありがたみが分かると言いますけども、なかなか失ってみないと私たち分からないんだと思います。
仏教では諸行無常と言われますが、諸行というのは全てのもの、全てのものは続かないということですから、全てのものは、いつどうなってしまうか、分からないと、今日あって 明日はどうなってしまうかわからない、そういうものばかりだということですね。その現実を私たちは忘れて、この状態はいつまでも続くものだと、こう当たり前にしてしまってるから、自分の幸せに気づかないんだということですね。今、こうして、電気がいつでも ふんだんに使えて、テレビつけたり、スマホでYouTube聞けたりするのも当たり前じゃないし、こうして平和で爆撃のない街というのも当たり前ではないし、また夫婦が今日の晩御飯何にするというような会話を何気なくするというそのやり取りもまた当たり前じゃないんだと、今日あって明日はどうなるかわからないものなんだと、こう仏教では教えられているということですね。そうすると今こうしてこの生きて色々なことができることは決して当たり前じゃない、感謝すべきありがたいことなんだということになります。さっきの夫婦でもですね、たとえ事故ってことがなくても、人間の心って変わりやすいじゃないですか。だから、今はお互い支えあうという気持ちでおりますけれども、いつまで続くか分かりませんよ。どちらかの心が変わってしまうってこともあるかもしれませんから、ですから 今 五年夫婦としてやってこれたとか、十年やってこれたと言っても、それはすごく感謝しなきゃいけないことで、来年は 三年後はどうなってるか分かりません。どちらかの心が変わってしまうかもしれません。あるいは 生身の体ですから、どちらかが何かなってしまうかもしれません。今の幸せが3年後もずっと続くなんてことは誰も保証できません。だから、今こうしてお互い支え合っていける、お互い会話できる仲であるということは感謝しなきゃいけないことです。
日本は平和がもうこれで70年以上続いてるわけですけども、これも本当に世界でも珍しいんですね。70年以上1つの国で平和が続いてるというのは感謝しなきゃいけないことです。ご飯が美味しいと思えるならば、それもですね、感謝しなきゃいけないことで、ご飯を美味しく食べれない人たくさんいるんです。あるいは自分の足で歩こうと思えば、近くの図書館にでも近くの公園にでも行けるというのもこれまた幸せなことです。いつまでそれは続くか分かりません。それでも歩いてちょっとグラってよろめくとですね。近くで大丈夫かとこう言ってくれる人がもしあなたにいたとしたならば、それも幸せなとです。そんなふうに声をけてくれる人がいない人もたくさんありますし、また私たちも、いつそうなってしまうか分かりません。ですから、今この諸行無常の世の中にあってですね、このようにいろいろ恵まれていることを気づく、感ずるとこういう幸せの形があるんですよね。また、それを感じられてこそ私達は幸せを感じることができる。逆に、これを感じられなくなると、当たり前になると、不平や不満しかその人の人生には出てこなくなるということが言えますね。』
2. 次世代に残すという幸せ
70歳からの幸せの形として、もう一つ言えるのは、次世代に残すという幸せである。70まで生きてきたということは、今までいろんなことを学んできとこと、知ったこと、経験してきたことを次世代に残す、それを知らない人達にシェアする、そういう幸せである。気づいたこと、知ったことは、自分の格付けのためにあるんじゃなくて、人に手渡すためにあるということ。自分の知識や経験は、誰かを助けることをもって、その人の器なんだということである。仏教の教えでは、これを「自利自他」といって、他の人を幸せにすること、他の人の幸せに貢献することが自分が幸せになる道であるという。
70歳からの「幸せ」(約23分のYouTube講話): https://youtu.be/G2zKP7k5qOc