浪漫飛行への誘(いざな)い

海外旅行は102か国、海外旅行、世界遺産、飛行機、卓球、音楽、歌謡曲、初物、語学、仏教シリーズ等の趣味の世界をブログに

就職先の選択

2018年07月28日 20時59分51秒 | 人生
50年近く前の話であるが、大学での就職活動の時期は、まさに学園紛争真最中の頃だったので、大学での就職案内、求人案内などは全くなく、すべて個人で就職先を探すしかなかった。自分で調べて、いくつかの会社を受験することにしたが、合格したのは3社、不合格は3社であった。合格した中に、第一志望の会社があったので、そこにお世話になることになった。他に合格した2社は、電機メーカーと重工業メーカー、不合格は、大手旅行会社と繊維メーカーと商社であったが、今考えると何と志望業界がばらばらであったことか。合格した他の会社に入っていたら、今頃どうなっていたかと考えることもあるが、自分の選択は間違っていなかったと信じている。

当時、学園紛争はあったものの、団塊の世代の就職時期に当たり、求人の人数も大幅に増えたような気がする。それでも、倍率は厳しかったが、第一志望で、何とか当時の学生就職希望ランキング第一位の会社に滑り込むことができたのは幸いであった。倍率は、20倍位であったと記憶する。

会社は決まったものの、学園紛争のあおりで3月に卒業できず、3か月遅れの7月1日入社となった。総合職の同期は250人位いたと思うが、東大を中心に7月入社組は30人以上いた。入社教育の最終日に配属先の発表があったが、北から順番に発表された。最初に呼ばれたのは自分一人で、勤務地は千歳。皆行きたくなかったようで、大きな拍手が沸いた。それまで北海道には行ったこともなく、全く馴染みがなかったので、正直なところショックは隠しきれなかった。地図を見ても地名が小さく表示されているだけなので思わす訊いてしまった、家具など身の回り品は向こうでも売っているのかと。 冗談で先輩から、赴任する時は、トンカチを持っていけと言われた。それは、冬に外で用を足すとそのまますぐに凍り付いてしまうので、トンカチで氷を叩く必要があるからと。。。。 実際、そこまで寒くはなかったが、寒さに弱い自分にとっては、試練の社会人生活のスタートであった。

入社即、寮生活が始まり、花の独身生活がスタートすることになった。札幌・千歳地区は、夏はゴルフ、冬はスキー天国なので、両方をやる人にとって、転勤先希望人気NO.1であったようである。しかし、両方ともやらない自分にとっては何のメリットもなかったが、独身寮にテニスコートがあったこともあって、生まれて初めてテニスをすることになった。幸い、海上保安庁にテニスの大変上手な人がいて、基礎から習うことができた。当時、その人からテニスを習った仲間が何人かいて、その一人とは今でもお付き合いが続いている。職場は違うが、テニス仲間の私的結婚式のために、わざわざ函館まで行ったこともあった。会社でテニスをやる人もいたが、なぜか多くは職場の違う人達と仲良くテニスを楽しんでいた。懐かしの天地真理の「恋する夏の日」(あなたを待つのテニスコート。。。)の世界である。支笏湖、定山渓、室蘭等でテニスの合宿もやっていた。全国ベースの社内のテニス大会(クラス別団体戦)で、札幌を代表して、優勝や第3位の経験もした。一度旭川で行われた道内の社会人テニス大会(B級)では第3位になったこともあった。まさにテニスは青春時代の楽しい思い出となっているが、今でも週1回楽しんでいる。男子寮の他に、歩いて15分位のところに女子寮もあって、若き独身の男女が入り乱れて生活していた4年間は、まさに花の独身生活だったといえる。

写真は、テニスの合宿(1972年 小樽 皆白いウェアで時代を感じますね)

恋する夏の日 (天地真理)  https://www.youtube.com/watch?v=F1SX2IqG3Xs
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スマホを海外に持っていく時は要注意

2018年07月17日 12時17分23秒 | スマホ・携帯

 

今回のモンゴル旅行の際、初めてスマートフォンを海外に持っていった。今までは、ガラケーだったので、スマホ乗り換え後初めての海外旅行であった。購入時、海外に持っていく際の注意事項は特に聞いていなかったので、そのまま持って行ったが、帰国後、スマホの料金を確認してビックリ。通信料としてデータ定額料5000円プラス約13000円が追加課金されていた。

海外でスマホはほとんど使わず、目覚まし時計とホテルのWi-Fi を試験的に利用した程度であったので、追加課金は何かの間違いではないかと思い、ソフトバンクの「ケータイなんでもサポート」係に電話を入れてみたところ、とんでもない事実が判明した。

何の設定も変えずにスマホを海外に持っていくと、WiFi につないだり、時には何もしなくても、データローミングが発生し、追加で料金が発生するという。契約しているデータ定額料(自分の場合 5Gで5000円)は国内のみの適用で、海外の場合は、すべてローミングの別料金がかかると説明を受けた。

その説明には納得せず、何も知らずに海外に持っていっただけで、追加料金が課金されるのはおかしいし、そんな説明も受けていない。ほとんどの人が国内で使うのだから、初期設定は国内限定とし、海外で使いたい場合は何らかの設定変更行うとするべきである。初期設定で常に海外ヘのローミングがONになっているのはトラブルの元だし、おかしいと感じた。

係員と話しているうちに、今回は何も知らないで海外に持っていって課金されたということなので、今回の海外での課金分は取り消してくれるという。ありがたい話であるが、すぐ取消処理対応をするということは、この手のクレイムが頻発しているのではないかと直感した。係員によれば、初期設定がそうなっているのは、メーカー(SONY)の問題だというので、そうであれば、ソフトバンクからSONYに対し、初期設定を変更するよう要請すべきであるとも提案した。

スマホ初心者として、初めてトラブルに巻き込まれた形になったが、常識的にどうみてもおかしいし、泣き寝入りしている人も多いのではないかと感じた。ソフトバンクのエクスペリア(SONY)だが、この機種だけの問題なのか、このへんに詳しい人がいたら教えてほしいものである。

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ナーダム祭り三昧

2018年07月16日 19時33分49秒 | 旅行
7月11、12日は2日間ともナーダムという年1回のモンゴル最大のお祭り観戦三昧となった。11日は、開会式と射的、弓射及び相撲、12日は、(子供)競馬と相撲の決勝トーナメントを観戦した。ナーダム祭りは、2010年にユネスコ無形文化遺産に登録されている。

開会式、射的、弓射及び相撲は、ウランバートルの競技場で開催されるが、競馬は、車で1時間半位離れたフイドローンホダグというところで行われるため、12日は早朝に車で現地まで行き、競馬のフィニッシュを見た後、競技場まで戻った。

ナーダム祭は、モンゴル人にとって最大のイベント祭なので、特に開会式のチケットを取ることは、至難の業であるとの情報が事前に入っていたので、少し高かったが、出発前に、HISのナーダム観戦ツアー(日本語ガイド付)に入ることにした。当初
一人だったので、225米ドルもしたが、途中で複数の混乗になるとのことで、170ドルに値下げしてくれた。それでも、2万円近い値段なので、高いといえば高いと言える。

開会式は、オリンピックの開会式のごとく、入場行進、マスゲーム、騎馬隊のパレードやショーなど盛り沢山で感動を覚えた。騎馬民族らしく、馬も多数登場する。競技場は超満員で3~4万人位の観客が入っていたのではないかと思うが、チケットの入手が困難というのもよくわかる。開会式は久しぶりの感動イベントとなった。

12日の競馬ツアーは当初、英語が話せないドライバーだけでガイドはつかないと言われたが、実際は、16歳の女子高校生が英語の勉強を兼ねて同行してくれた。競馬のフィニッシュ地点の草原の丘は物凄い数の車と人で溢れ返っていた。道路も反対車線を含め、すべての車線を一方通行とするほど車が現地に殺到し、いかにビッグイベントであるかが伺える。フィニッシュ地点には、観客席のスタンドが設置されていたが、そこも超満員で、外の観客を含めると1万人以上は草原の丘にある会場にいたと思われる。しかし、仮設のトイレは一か所しか見当たらず、皆どうしているのかと心配になったほどである。

13時頃、競技場に戻ってから21時頃まで、射的と弓射と相撲の決勝トーナメントを観戦した。競技場は勿論満席であるが、外にも、いろいろな屋台のお店がでていて、まさにお祭りを楽しむ人で溢れ返っていた。地元の人も年1回のこのお祭りを家族揃って楽しみにしているようであった。

相撲は、512人が参加し、5回戦目から見たが、5回戦は16名ずつの対抗戦で、8戦目が準決勝、9回戦目が決勝にあたる。フィールドの芝生の上で戦うが、土俵はなく、時間制限もないので、とにかく勝負がつくのに時間がかかる。優勝者が決まったのも、予定より1時間半ほど遅れていた。今回優勝した人は、初めてらしく、新チャンピオン誕生ということだそうである。出場者は皆、体格がよく、日本の大相撲でモンゴル力士が強いのも頷ける印象を持った。

地元の人は、お祭りの時は、名物の「ホーショール」(ひき肉を小麦粉の皮で包み、油で揚げた料理)を食べるのが慣習のようである。一回食べたがそれほど美味しいという感じはなかった。昼食は、ホテルから持ち出したパンやお菓子で賄い、夕食は屋台で食べる気はなく、日本から持ってきた水だけで作れるインスタントの五目御飯を食べた。スケジュールが大幅に遅れたので、閉会式の前に、途中で会場を後にし、ホテルまで約40分歩いて戻った。最後には打ち上げの花火が上がって、祭典の幕を閉じた。
 
写真は、開会式の騎馬隊
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レストランで偶然ある人に会う

2018年07月11日 07時53分28秒 | 旅行

 

10日の夕食は、ホテル近くのHokkaidoという日本食レストランに行ったが、入ってみるとどこかでお見かけしたような人が目に飛び込んできた。ひょっとしてとも思ったが、絶対あり得ないと思いつつも、周りにいた人に名前を出して訊いてみたら、その方だというので、ビックリ仰天。

その方とは、昨年まで駐日モンゴル大使だった方で、たまたま十数年前に、東京で一緒に食事をしたことがある個人的に知っている唯一のモンゴルの方である。家の近くに住む知人のチベット人夫妻を一度我が家に招待したことがあり、そのお返しというか、帝国ホテル近くの高級レストランに夫婦で招待されたことがあった。その時に、一緒に会食し、紹介されたのが当時の駐日モンゴル大使夫妻であった。会食中、今度、強い相撲取りが来日すると語っていたのが印象的で、それが朝青龍であった。

そのチベットの方も、政治学者のコメンテーターとして時々テレビに出演されたり、何年か前にブータン国王が来日された時にも通訳を兼ねてアテンドされていたほどの著名人である。同じ大学を卒業し、彼の講演会に参加したことが縁で今でもおつきあいが続いているが、当時のモンゴル大使とも大変親しかったようである。その大使は、本国の要職と日本大使を交互に務められており、日本通として大変有名な方であるが、昨年、リタイヤされて本国に戻っていたことは、ネットで調べて知っていたものの、まさかこんなレストランでお会いできるとは夢にも思わなかった。

元大使の話によると、その日本食レストランの経営が日本人に代わり、そのお披露目を兼ねて、現職の駐モンゴル日本大使とモンゴル政府の閣僚等との会食がちょうど予定されていて、まさにその準備をされているタイミングであった。こちらはしがない一人旅で定食を食べに来ただけなのに、そこはたまたま接待もできる高級レストランで、このような政府の要人の会食現場に遭遇したとは、まさにあり得ないような偶然の重なりであった。元大使も我々と食事をしたことは覚えていていただいていたようである。失礼ながら、一緒に記念写真を撮らせていただいたが、こんな偶然もあり得るのかいまだに信じられ嬉しい再会となった。

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テレルジへのガイドツアー

2018年07月11日 00時28分03秒 | 旅行
7月10日は、Indy Guideというローカルガイドを利用して、ウランバートルから約50km離れているテレルジという国立公園に行ってきた。見てきたものは、チンギス・ハーンの巨大像とテレルジの亀石及びアリヤバル寺院であるが、1日中雨模様で寒く、厳しいツアーとなった、ガイドの女性は、19歳の大学生(英語勉強中)で今日が初体験ということで、緊張しきっていた。英語もあまり上手ではないが、初めてということでメモを見ながら一生懸命やっていた。若くて可愛い女の子が同伴してくれていると思えばツアー料金も安いものであった。

日本の旅行会社がやっている日本語ツアーの半分位の料金で、なおかつ1対1のエスコートサービスであるから極めてリーズナブルだったと言える。12日のスケジュールが未定であったが、そのエージェントが競馬ヘのツアーと相撲の最後と閉会式のチケットも取ってくれて、約7000円でやってくれるというのでそこに急遽お世話になることにした。どれも日本で手配する額の半分位でできるようなので、いかに日本語ツアーが高いものかがわかる。11日の開会式のチケットは現地でもとりにくいという話で、HISのツアーを買わざるを得なかったが、結果論からすると現地でも半値くらいで十分手配可能であったかも。

ツアー終了後、近くの日本食レストランに夕食を食べに行ったが、そこでびっくりするような個人的なハプニングが待っていた。(続く)

写真は、チンギス・ハーンの巨大像
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ウランバートルの市内散策

2018年07月10日 06時37分08秒 | 旅行
7月9日はホテルを朝9時半頃出てすぐ傍にあるスフバートル広場を散策した後、11日のツアーの件もあったので、諸情報を得るためにHISのオフィスに行こうとノミンデパートから南に徒歩3分という案内だけを頼りに歩き始めた。住所だけがわかっていたが、道行く誰に訊いてもわからず、探すのに30分以上かかってしまった。敗因は、正式な住所を見せても皆ほとんどわからないこと、看板が出ていることが後でわかったが、奥まったところにあるので、その前を歩いてもほとんどわからないこと、地元のツーリストオフィスの女性も場所を間違って教えたこと等である。わかりにくいなら、ネットの支店紹介欄に地図位は載せるべきであろう。

市内巡りとしては、ガンダン寺(1838年創建のチベット仏教寺院)、ザイサン・トルゴイ(戦勝記念碑のある丘で市内が一望)、ボグド・ハーン宮殿博物館(ボグド・ハーン8世が最後の20年を過ごした宮殿)を見て回ったが、ザイサン・トルゴイに行く時だけタクシー(約1200円)を使った。 後はすべて歩いて見て回る結果となり、歩数計は28000歩位になってしまった。敗因はタクシーがつかまえにくいことによる。街を歩いていても、TAXIの表示を掲げたタクシーはほとんど見かけない。やたらタクシーが多い都市もあるが、ウランバートルは、白タクが多く、正規のタクシーは少ないようである。言葉が通じないので、白タクは怖くて乗れないし、正規のタクシーもメーターを早回しする等インチキもあるようである。路線バスもガイドブックに載っている番号のバスは全く見かけないし、路線バスの利用はまず無理なので、歩くのが一番安全かつ確実な移動手段なのである。

街を数時間にわたって歩いていたので、街の様子がよくわかった。まず、車が多く、ひどく渋滞している。車の多くは、トヨタとヒュンダイで、他社はどうしたのかという位普及の度合いが違うように見えた。タクシーが少ないことは前にも触れた。歩いている人を観察すると、男性は朝青龍のような顔をして、がっちりした人が多く、女性は、失礼ながら、お尻が大きく、胸元の肌の露出度も大きい。同じ蒙古斑をもったモンゴル人と日本人なので、日本人と似たような顔立ちの人も多い印象であった。道路は、予想通り、埃っぽいがマスクをしている人は誰もいなかったので、マスク着用は控えた。

明日は、モンゴル人の個人ガイドを利用し、テレルジ方面に出かける予定であるが、調整準備不足もあり、どうなるかわからない状況である。

写真は、ザイサン・トルゴイのモニュメント
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モンゴルが102か国目の訪問国

2018年07月09日 08時38分55秒 | 旅行
7月8日に成田からモンゴル航空の直航便でウランバートル入りし、モンゴルが102か国目(アジアでは31か国目)の訪問国となった。時差が1時間しかなく、直航便なので、5時間半という飛行時間でも体はかなり楽である。今回、空港の出迎えにホテルの車を頼んでいたので、タクシー交渉もなく、楽勝であった。

空港で両替をしたが、インフレのためか、1万円しか両替してもらえなかった。1万円で219,900トゥグルグという額になった。ATMでも両替を試みたが、これも200,000トゥグルグが限度とのことであった。とにかくたくさんの紙幣で財布がパンパンになってしまった。

夜7時半頃の到着であったが、外はまだ日がかんかん照りで明るく、真昼の印象であった。モンゴルがだいぶ北にあることを再確認した。モンゴルは大陸性気候で寒暖が激しいようで、昼間25度位でも夜になると5度位に温度が下がるみたいである。体調管理が難しそうである。

空港はガイドブックには2017年夏に新空港に移転予定と書かれていたので、新空港かなとも思って乗務員に訊いたところ、まだ今までの空港で、来年に延期されているとのことであった。

30分ちょっとで街中にあるホテルに到着した。5星(本当か不明)のホテルとあって、部屋も広く、かなり立派であった。5泊予定だが、1泊朝食付きで6000円位なので、リーズナブルともいえる。9日は1日中ウランバートルの街中を散策する予定。

写真は、モンゴル航空の飛行機
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思い出残る大学時代

2018年07月08日 08時04分17秒 | 人生
中高校時代から英語が好きな学科であったので、大学受験の第一志望校は早い時期から決まっていた。そこは、英語、国語、世界史の3教科で受験できたように記憶しているが、数学、化学を含めた5教科となると自信はなく国立1期校はほぼ諦めていたが、結果的には、試しに1期校も受験したが、うまくは行かなかった。当初、私立大学を受験することも考えたが、結果的には、失敗したら浪人する覚悟を決め、私立大学は受験しなかった。

大学は第一志望校に幸運にも合格したので、一浪せずに済んだが、同級生は優秀な人が多く、入学当初はかなり劣等感を感じていた。ある教授による入学してすぐの試験は、出題範囲なしという実力テストであったが、あまりにできないのでショックを受けた苦い思い出がある。いっぱい難問があったが、覚えているのは、「旧約聖書」を英語に直せという問題で、正解は、“Old Testament” であるが、できの悪い自分は、Old Bible としか書けなかった。恐らく30点位しか取れなかったものと思われる。

大学での授業は、ほぼ真面目に出ていたので、専攻科目でも一般科目でも、大半が優か良で、可は一つもなかった。授業内容はあまり覚えてないが、専攻科目で印象に残っているのは、”American English”である。アメリカ英語はシェークスピア時代のアメリカへの移民が使っていた英語で、その後、イギリス英語は、どんどん変貌、進化を遂げるが、アメリカに渡ってしまった英語は、それに取り残され昔のままの英語が定着してしまったようである。要するに、シェークスピア時代の英語とアメリカ英語は似ているということである。アメリカ英語の形成は、大変興味深く、他にも比較言語というかloan word とかいろいろ言語を比較してみると面白いことも学んだ。

大学では、勉強はさておき、卓球部に入り、クラブ活動を一生懸命やっていた。卓球を始めたのは、大学が初めてであったので、経験者もいる中、最初は低いレベルであったが、4年間でかなり上達することができた。団塊の世代らしく、同期は女性3名を含め、12名もいた。学園紛争の最中で、授業はなくても、卓球の練習だけは続けていた。国立大学なので、卓球レベルは低く、関東学生リーグの中では、5部に留まっていた。それでも、合宿はじめ楽しい思い出がいっぱい残っており、今でも同期や仲間との交流は続いている。

大学で卓球をやっていた関係で、会社に入ってからも、ドイツ駐在中も、定年後の今でも、卓球とは深い関わりを持っている。卓球を通じて、国際交流したり、中国に遠征したり、自分の人生の中で大きな要素を構成しており、卓球をやっていてよかったと回想している。

写真は、卓球の合宿
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旅行中の犯罪被害体験談(ジプシー集団スリ) 

2018年07月07日 14時25分00秒 | 旅行

 

1985〜1989年のフランクフルト駐在中、自分自身が実際の被害にあったことはないが、何回かジプシーの犯罪を目の前にしたことがある。まず、実行者はすべてジプシーの子供達であり、旅行者とのすれ違いざまにケチャップみたいなもの(時にアイスクリーム)を付けて、旅行者をびっくりさせる。付けられたことに気を取られている内に、別の子供が財布やバッグを奪い、それをすぐに別の仲間に投げて回す。どんどん回されるので、奪った子供を調べても追及しても、何も出てこないのである。こうなると証拠をつかまえようがない。

なぜ、子供が実行者かというと、警察に捕まったとしても、事情聴取だけで、未成年であるとして、すぐに釈放されるからである。人の話によると、朝に、ベンツの車に子供達を乗せて現場に行き、子供達が実行中、大人は陰で現場を見ているというウソのような話もある。ベンツが持てるほどいい商売ともいえる。

ある時は、市内のカウンターに来た日本人の旅行者が着席して、すぐ横にカバンを置いて手続きをしていたが、何とそのカバンが盗まれようとした。犯人は、一般客を装い、カウンターに近づき、手続きに夢中になって横に置かれていたバッグを奪ったのである。旅行者は全く警戒することなく、自分の横にバッグを置いていたが、手続きに集中していて、まさにそのスキをつかれたのである。係員が気付き、後を追いかけたため、バッグは放り投げて逃げていった。カウンターは、ビルの2階にあり、カウンター前にはほとんど人がいなかったが、そんな状況でも、このような事件は起きるものである。まさに油断大敵であった。

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旅行中の犯罪被害体験談(受託手荷物からの抜き取り)

2018年07月06日 21時19分22秒 | 旅行

 

2010年9月20日にキエフからモルドヴァのキシナウに移動すべく、キエフ空港でアエロスヴィット航空のチェックインカウンターに向かったが、空港に入ると荷物の梱包専用ブースがあって、多くの旅客が手荷物自体を透明なシートのようなもので梱包してもらっているのを見てビックリ。

チェックインに並んでいた人にその理由を聞くと、チェックインで預ける手荷物はハンドリング係員によって鍵が開けられ、金目の物が抜き取られるケースが日常茶飯事であるので、抜き取られないよう盗難防止のために梱包しているとのこと。見回したところ半分以上の人が梱包している感じで、ちょっと心配になったが、金目の物は何も入っていないので、そのまま手荷物として1個預けた。

キシナウの空港で荷物は無事到着したが、案の定、荷物の鍵(番号ダイヤル式)は開けられた状態で、中をチェックすると完全に金目の物を探した痕跡が残っており、ホテルでよく調べたところ、お土産の包みが破られたり、中を開けられたり、小物類は一か所まとめてあったり、とにかく探しまくった跡がありあり。しかし、どうみても何も抜き取られていない感じなので、犯人もさぞかしがっかりしたであろうと想像する。

聞くところによれば、彼らの手によれば、どんな鍵も瞬時に開けてしまうそうだが、このような犯罪を放置しているウクライナの警察は何をやっているのかと憤りを覚える。梱包した荷物からは盗まないというのが暗黙に了解のようであるが、旅慣れた乗客もそれに備えて手荷物の梱包をしているなんて何か変である。

キエフ空港では、この手の犯罪が日常茶飯事であると聞くと、我々は日本人でよかったと痛感する。それにしても、金目の物が何も入っていないとわかった時の係員の悔しい顔が目に浮かぶとともに、汚い手で荷物の中をひっくり返されていたかと思うと不愉快千万である。2日後 キシナウからブカレストに向けて飛行機を利用した時は、空港に同じ梱包ブースがあったので、今度は迷わず梱包した(350円位であった)。もちろん、荷物は荒らされなかったが、何か変である。

写真は、キエフ国際空港、アエロスヴィット航空機,

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