だいぶ前に読んだポール・ケネディの『大国の興亡』 なんだか頭に入らなかったのは訳のせいだと最近読み始めた "The Rise And Fall Of The GREAT POWERS" Paul Kennedy 1988 こりゃ読み安い。やっぱり訳のせいなんだと思って読み進めたはいいが、何を思ったのかペーパーバックではなく単行本で読み始めたので重い。それと、訳のせいじゃなくてそもそも内容が難しい&薀蓄だらけで読み飛ばせない。
そんなわけで、やや逃避を兼ねて福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』を軽い読み物として読み始めてみた。
あれ~?ありゃりゃ~?
これはおかしい。 ベストセラー = 簡単なモノ という方程式じゃなくて、恒等式が成り立っていない。意外なほど、難しいのだ。こんな難しい本がよく売れたもんだと思いつつ、レビュー風してみる。
子供の頃、トカゲの卵を持ち帰った少年福岡伸一。なかなか孵化しないので、卵に穴を空けてみた。
するとどうだろう。中には、卵黄をお腹に抱いた小さなトカゲの赤ちゃんが、不釣合いに大きな頭を丸めるように静かに眠っていた。
次の瞬間、私は見てはいけないものを見たような気がして、すぐにふたを閉じようとして。まもなく私は、自分が行ってしまったことが取り返しのつかないことを悟った。殻を接着剤で閉じることはできても、そこに息づいていたものを元通りにすることはできないということを。いったん外気に触れたトカゲの赤ちゃんは、徐々に腐り始め、形が溶けていった(283ページより引用)
次の瞬間、私は見てはいけないものを見たような気がして、すぐにふたを閉じようとして。まもなく私は、自分が行ってしまったことが取り返しのつかないことを悟った。殻を接着剤で閉じることはできても、そこに息づいていたものを元通りにすることはできないということを。いったん外気に触れたトカゲの赤ちゃんは、徐々に腐り始め、形が溶けていった(283ページより引用)
実はこの引用した箇所はこの本の一番最後に書かれているエピソードである。そして、著者の福岡氏がこの本で言いたかったことはここに凝縮されている。と書いても、何のネタバレにはならないだろう。
タイトルが『生物と無生物のあいだ』なので、それについてのみ考察した本かと言うとだいぶ違う。生物と無生物の違いを一つのテーマにしながら、ワトソン&クリック以前と以後の遺伝子・DNA解析の歴史、著者自身の研究生活(ポスドク=奴隷)、帰納的な論理の導き方と演繹法のもたらす相違、ワトソン&クリックに言わば、「盗まれた」研究者、著者が専門に研究した膵臓内にある細胞膜の研究から導き出された研究結果→生物全体に言える真理・・・・・・
エピソードは多彩。何より文章が美麗だ。理系研究者が書く文章とは思えない。
科学系の本はレビューしていないモノを含めると、そこそこに読んでいるのだが、『マザー・ネイチャー』(参照拙レビュー「「マザー・ネイチャーは2006年のベスト本だ」あるいは、『E=mc2 世界一有名な方程式の「伝記」』を読んで以来、久々にガツンと来た。定価740円だが、7万4千円、いやそれ以上払っても惜しくない本だった。

以下、蛇足、もしくは【自分用覚書】 読んでもネタバレにはならないが。
著名な物理学者、シュレディンガーは「原子はなぜそんなに小さいのか?われわれの体はそれに較べてなぜそんなに大きいのか?」と問う。福岡は、ルートnの法則によって、原子が100個あある場合、ルート100=10 と10%も秩序を乱す原子が存在してしまう。しかし原子が100万個あると、ルート100万=1,000 誤差はたった0.1%となるので生命体が大きい方が誤差を吸収できると説く。うーむ。なんだかとっても説得力があるぞ。
しかしシュレディンガーは「われわれ人間など高等生物のエントロピー増大を防いでいるのは、負のエントロピーを持つ食べ物を取り込んでいるからだ」とした。(うーんと、エントロピーは乱雑さというかなんというか。ワカラン人は自分で調べておくれ)しかし、シェーンハイマーが重窒素で標識したアミノ酸を使って、マウスがどの程度体内に吸収されるか研究をしたところ、体外に排泄されたのはたったの29.6% 56.5%はタンパク質として体内に取り込まれていた。タンパク質をアミノ酸としてせっせと体内に取り込むと同時に、同量のたんぱく質をもったいないことにアミノ酸に分解して体外に捨てているのだ。うーむ。
そこから、生命とは「自己複製するシステム」ではなく、本書の冒頭に掲げられた「動的平衡」へとつながっていく。なんてスムーズな流れなんだろう。
「生命とは動的平衡にある流れである」(167ページより引用)
(ネタバレを避けるため詳しくは書かないが)、キーワードは「時間は戻せない」「生命は機械ではない」
【頼まれもしないのに、勝手に何かを導き出すの巻】
① DNAが壊れたDNAを修復する機能を持っていることを一つのヒント。人為的に壊した細胞を周りの細胞が補完すること(狂牛病の元となるブリオンタンパク質異常。そのブリオンタンパク質が出来ないように操作されたマウスは正常。しかし、不完全なブリオンタンパク質遺伝子を戻してみると、狂牛病と似た症状を起こしたということをもう一つのヒントにして、人間社会にあてはめてみる。
どんな人間社会でもいい。会社、家庭、学校。リーダー的存在の人間をそこから引っこ抜いてみる。すると、リーダー不在になったからといってそのグループは機能不全に陥るわけではない。残されたメンバーがリーダーの役割を補完することによって機能するはずである。ところが、リーダーを引っこ抜いた後、しばらく時間を置いてから不完全なリーダーをそのグループに入れてみる。するとグループは崩壊寸前になるのではなかろうか?
会社なら課長という機能しているリーダーを抜くと、部下たちは課長なしでやって行けるように相互補完して上手くやっていけるだろう。そこへ課長として機能していない人間を課長としてその課に配属すると、それまで上手く行っていた「課長不在状態」が不完全な課長によるリーダーシップによってその課をダメにする。
うーむ。自分としては非常に分かり安い、人間社会への置き換えだったのだが、たぶん誰も分からないだろう。まあいい。
② 細胞の中にある小胞体の中はその細胞の外部にあたる。つまり、「内部の内部は外部」このトポロジーの変容については第11章を読まれたし。
内部の内部 = 外部 でなぜかフロイトを連想した。
自分の内面にある自我とエス(まあ、欲求ぐらいにしとこう) それを検閲するのが超自我(まあ、自我がやろうとすることを世間や社会の規範を持って来てやめようとする検閲機関のようなものとしとく)
内部の内部は外部って、超自我のことではないか?超自我(のある部分)は自分ではなく外部のルールに則って機能する。内部の内部が外部とは、超自我は自我とエスの内部にあって、外界とつながっている。ってことになる。ならない?ってゆうかどうでもいい?
③ 著者はジグソーパズルを例に挙げて、一つだけ空いた所にはまるピースは必然的に周りのピースから決まる。DNAもアミノ酸も同様に「周りが決まれば、そこに入るものも必然的に決まるし、一つのピースが入る所も必然的に決まる」というようなことを書いている。
うーむ。
自分という人間は偶然作られた。しかし自分というピースがはまる場所は必然的に決まる。生きる場所も。自分という人間は偶然の産物だが、それとピタッと合う女性というのは必然的に最初から決まっている。ちょっと運命論的ではあるが、俺の「人間は誰でもピタッと合う異性、あるいは同性が地球上には必ず一人いる」論とがっちりとはまるので、いただいておいた。
※参照拙記事:「記事150本目『人はなぜひとを好きになるのか』
久しぶりに、誰に読ませるでもなく、自分のためだけに記事を書くと、非常に爽快な気分になったのはなぜなんだろう・・・・・・
今日の教訓
ゲノムを操る少年
ゲ・ゲ・ゲのむ太郎

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