玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ストーンズの伝記〈2〉

2006年05月13日 | 日記
 フランソワ・ボンの書いた伝記は、ストーンズのメンバーを理想化したり、あるいはストーンズが残した曲の数々を聖別したりという意図をいっさい持っていない。これまでに書かれてきた伝記のたぐいが、彼らを聖人化する意図に貫かれているか、あるいは聖人化してしまう傾向にあったのとは大きな違いだ。
 唯一人品行方正であったチャーリー・ワッツを除いた初期のメンバー4人の行状、乱脈な女性関係、過剰な飲酒、そして薬物への依存とそのエスカレート等の記述を読んでいるとほとんど胸くそが悪くなりそうだ。ローリング・ストーンズは決して愛すべき隣人ではあり得ない。
 ボンの伝記は、彼らの私生活の詳細を書き尽くしているが、決して”共感を持って”そうしているのではない。彼が10代であったときに《Satisfaction》や《Jampin' jack flash》《Street Fighting Man》そして《Sympathy for the Devil》等の曲がどうして彼自身をあれほど揺さぶることが出来たのか、その原因を探るべく彼はストーンズの私生活に分け入っていくしかなかったのだろう。
 私も又あれらの驚嘆すべき曲が生み出されていた頃、10代の多感な時代を過ごしていた。《Satisfaction》は私にとって最初の聖痕となった。《Street Fighting Man》は世界に対する拒絶の思いを私の中に形成した。それにも増して《Sympathy for the Devil》が1曲目に入った〈Beggar's Banquet〉のLPに、初めて針を落とした時の背筋が凍るような体験を忘れることが出来ない。《Sympathy for the Devil》は、私がそれまで見ていた世界の相貌を一変させた。
 ロック音楽がそのような体験をもたらすということは、ストーンズ以前にはなかったし、ストーンズ以降もないだろう。フランソワ・ボンの体験は、私自身の体験と全く一致している。私には彼らの私生活を詮索する興味はなかったが、ボンにはそうせざるを得ない必然性があったことが違っているだけだ。

郷土史家と健脚

2006年05月13日 | 日記
 晴天に恵まれたゴールデンウィークだったが、ほとんど市内から外へ出ることはなかった。一番遠い所へ行ったのも、かつては市外であった高柳町まで。でも、市内でいろんな発見をすることができた。
 柏崎刈羽郷土史研究会の新沢佳大会長のお供で、柏崎の中世歴史散歩としゃれ込んだ。あちこちと歩いたが、主に中世の城跡めぐりで、歴史音痴の私には、初めて足を踏み入れる場所もいくつかあった。
 上条城趾も初めて訪れる史跡の一つだった。ここは上杉氏の分家である上条上杉氏が城を構えていた所で、今は城の痕跡など何一つ残っていない。ただし、城を築いた土塁の跡は、その段差によって「言われてみればそうかな」という程度には分かる。
 それよりも地元の人が植樹した、さまざまな桜が咲き誇っていて美しかった。ソメイヨシノはとうに散っていたが、白色やピンク色の八重桜が青空に映えていた。鬱金桜も花盛りだった。緑色の花弁を持つこの桜は、最初群馬県の妙義神社で見た。
 その淡い緑色が何とも言えぬ風情を感じさせて、「珍しいものだな」と思った記憶がある。上条城趾には、この桜が何本か植えられていて、訪れる者の目を楽しませてくれる。濃いピンク色の八重桜にどぎつさを感じたら、鬱金桜のやさしい色彩で目を休ませるに限る。
 ちょっと市外にも出た。市外と言っても刈羽村。斎藤下野守が城を構えた赤田城趾に登るためだ。ここは何度も来てよく知っている。十五分ほど登れば頂上の本丸跡に到達する。カタクリの花は終わっていて、シャガの花はまだ。ちょうど端境期で目を楽しませてくれる花はなかったが、眼下の田園地帯を渡ってくるそよ風が気持ちよかった。
 それにしても、新沢先生の健脚ぶりに驚いた。三十年前には歴史研究のために、あちこち歩かれたそうで、郷土史研究家の一つの条件は健脚にあると知った。

越後タイムス5月12日「週末点描」より)