先日新潟を訪れた時に、西大畑の「砂丘館」に寄り道した。旧日銀新潟支店長役宅で、現在は指定管理制度でNPOに管理運営を委託され、ギャラリー等として利用されている。この近辺には、会津八一記念館や坂口安吾を記念する「風の館」、安吾生誕碑など、文学に関係する施設等がたくさんあって、「文学まち歩き」コースとして、誘客を図っている。
新潟市ゆかりの文学者は他にも丸谷才一や野坂昭如、市島三千雄などがいて、市内いたるところに文学碑が建てられている。柏崎の場合も句碑や歌碑などはたくさんあるが、もともと柏崎出身の文学者というのがほとんどいないために、人を呼べるものとしては、貞心尼の歌碑があるくらいのものだろう。
柏崎ゆかりの歌人・吉野秀雄の歌碑もふるさと人物館脇にあるが、ほとんど忘れられようとしている。柏崎出身者としては、作家の江原小弥太、獄中歌人の島秋人、詩人の蓮池慎司などがいるが、いずれも碑は存在していない。
ところで、文学碑というものを好きになることができない。碑を見ることがその作家の作品を読むことにつながればいいのだが、作品を読まないで済ますための方便となりかねないと思うからだ。作家の残したものは作品として結晶しているのであって、碑はその形骸にすぎない。
龍安寺の石庭の石を「糞かきべら」とまで言い放った坂口安吾が、生誕碑や詩碑を建ててもらったことを、果たして喜んでいるのかどうか。後世の人が勝手に碑を建てる行為が、作家の意にかなうものかどうかということは、決して軽い問題ではない。
新潟市ゆかりの文学者は他にも丸谷才一や野坂昭如、市島三千雄などがいて、市内いたるところに文学碑が建てられている。柏崎の場合も句碑や歌碑などはたくさんあるが、もともと柏崎出身の文学者というのがほとんどいないために、人を呼べるものとしては、貞心尼の歌碑があるくらいのものだろう。
柏崎ゆかりの歌人・吉野秀雄の歌碑もふるさと人物館脇にあるが、ほとんど忘れられようとしている。柏崎出身者としては、作家の江原小弥太、獄中歌人の島秋人、詩人の蓮池慎司などがいるが、いずれも碑は存在していない。
ところで、文学碑というものを好きになることができない。碑を見ることがその作家の作品を読むことにつながればいいのだが、作品を読まないで済ますための方便となりかねないと思うからだ。作家の残したものは作品として結晶しているのであって、碑はその形骸にすぎない。
龍安寺の石庭の石を「糞かきべら」とまで言い放った坂口安吾が、生誕碑や詩碑を建ててもらったことを、果たして喜んでいるのかどうか。後世の人が勝手に碑を建てる行為が、作家の意にかなうものかどうかということは、決して軽い問題ではない。
(越後タイムス2月25日「週末点描」より)