玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

涙を禁じ得ない

2011年04月27日 | 日記
 東北関東大震災による死者・行方不明者が二万八千人を超えると報道されている。それだけでも驚くべき数字だが、さらに行政としての機能を喪失していて、行方不明者の数さえ把握できない自治体があり、犠牲者の数はさらに増えると言われている。
 先日、福島県浪江町からの避難者の方と話をした時に、その人は「町は津波で大きな被害を受け、行方不明者の捜索にも行けない状態で、マスコミのカメラも入らない」と悲痛な声をあげていた。浪江町は福島第一原発から十キロ圏内を含み、避難指示が出ているため、誰も立ち入ることができない。
 あれからすでに二十日が経過しているが、福島原発の危機的な状況は続き、汚染は拡大するばかりである。海の汚染も進んでいて、犠牲者は今、どんな状態に置かれているのだろうと考えてしまう。
 生きている人間に尊厳があるのと同様に、死者にも尊厳がある。だから、我々は死者を弔うため、体を拭き清め、死に装束を着せ、棺に納めて合掌し、通夜を行い、葬儀を営んで、死者に掌を合わせる。
 死んでしまえば“もの”でしかないと言うかも知れないが、死者の尊厳は生きている人間にとってこそ必要不可欠なものなのだ。我々はそこで自分自身の生の尊厳を確認することができるからだ。死者は無駄に死ぬのではない。
 しかし、原発から半径二十キロ圏内の犠牲者達は、捜索もされることなく、放置され、見捨てられ、放射線にさらされ、腐敗し、ボロ屑のように朽ちてゆく。朽ちて骨だけになっても、いつか発見されるならよいが、いつそこに立ち入ることができるようになるのか分からぬ限り、彼らの尊厳は失われ続ける。
 涙を禁じ得ない。

越後タイムス4月1日「週末点描」より)


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吉田昭一さんが亡くなった

2011年04月27日 | 日記
「越後タイムス」前主幹・吉田昭一さんが亡くなった。二十日の夕食時に「斃れて救急車で運ばれた」との連絡があり、病院に駆けつけたが、「死亡確認」の後だった。
 吉田さんは昭和三十年に中村葉月の後を継いで主幹となり、平成十三年に引退するまで、四十七年もの長きにわたって「越後タイムス」を背負って来られた。生涯を「越後タイムス」に捧げられたと言ってもよい。
 それだけでなく、吉田正太郎の作品をまとめた『縹亭余技帖』、タイムス同人・小竹久爾の随想集、『評伝・柏崎市長小林治助』、柏崎商工会議所創立五十周年記念誌『柏崎産業経済の歩み』、柏高創立百周年記念誌『回顧百年』など、柏崎の出版史上に輝く多くの仕事を残された。
 引退時に自分自身の本をと、タイムス紙上の編集後記「テールランプ」を厳選した『石ぐるま』を私が編集し、出版した。『石ぐるま』を残すことができたのは、吉田さんに対する最大の孝行だったように思う。
 引退時、三冊の本を書くことを約束されたが、健康状態は悪化する一方で、それが果たされることはなかった。タイムス紙上に連載した「『黒船館』吉田正太郎」が完結されなかったことは、大いに悔やまれるところだ。
 今年二月に百周年記念事業として開催した「鬼灯」柏崎公演を「どうしても見たい」と言って電話して来られたのは、公演の半月ほど前のことだった。以前から柏崎育ちの獄中歌人・島秋人に強い関心を持っておられたのだ。
 二十七日には、福祉タクシーを手配し、二階から吉田さんを降ろして車椅子に乗せ、車椅子のまま観劇してもらうことができた。公演後、非常に喜んでおられた姿が忘れられない。久しぶりに多くの知人に会うこともできた。「越後タイムス」五代目として、先代に対する最後の孝行であった。ご冥福を祈る。

越後タイムス3月25日「週末点描」より)


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睡眠不足

2011年04月27日 | 日記
 先週この欄でハイチ地震のことを書いたその後に、東北関東大震災が起きてしまった。十一日の新聞発送を終えたばかりの、午後二時四十六分のことであった。柏崎でも震度4を観測したが、それがマグニチュード9・0の世界最大級の超巨大地震であったことを知るのは、その後のことである。
 テレビの報道によって“とんでもない事”が起きていることを知った。テレビの画面に釘付けになり、情報を追っていた午後七時三十六分、携帯電話に普段の着信音とは違う、初めて聴く音が鳴り響いた。「福島沖で地震発生。強い揺れに備えてください(気象庁)」という緊急地震速報の着信音であった。
 携帯電話はつかっているが、iモードは登録していないから、そんなメールが入ってくるとは思っていなかったので、びっくりしてしまった。最近、以前の携帯が壊れてしまい、新しいものに更新したのだが、メールの送信はできなくても、受信はできるということなのだろうか。よく分からない。
 その後も緊急地震速報の受信は続いた。午前三時五十九分には「新潟県で地震発生」(後に長野県に訂正)、四時十六分にも同種の、四時三十二分には「栃木県で」、五時四十二分に「新潟県で」、六時三十四分に「長野県で」と連続した。
 午前三時五十九分には寝ていて、速報に気付かなかったのだが、激しい揺れにたたき起こされた。震度5弱とのことだった。中越沖地震で馴れてしまっているのか、不思議と怖さは感じなかった。だから、またすぐに寝たのだが、午前四時十一分に普段の着信音が鳴り、再びたたき起こされた。
 東京の知人から安否を気遣う電話であった。寝ぼけ眼で応対した。それ以来睡眠不足が続いているが、速報に対し迅速に対応するのは極めて難しいと思った。

越後タイムス3月18日「週末点描」より)


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ラフェリエール城砦

2011年04月27日 | 日記
 昨年一月の地震で三十一万六千人もの犠牲者を出した中米のハイチは、中南米諸国の中で最も早くヨーロッパの植民地からの独立を果たした国である。しかし一八○四年、独立によって最初の黒人による共和制を樹立した後も、独裁者による弾圧と殺戮、民衆による暴動や反乱が繰り返されてきた。
 そうした歴史を“魔術的リアリズム”と呼ばれる手法で描いた小説がキューバの作家・カルペンティエルの『この世の王国』で、そこに最初の独裁者アンリ・クリストフ(フランス人みたいな名前だが、黒人)が築いたラフェリエール城砦のことが出てくる。旧宗主国のフランスが攻めてくることを恐れ、二十万人の民衆を酷使して、武器や砲弾、食料庫や貯水槽をそなえた城砦は完成された。
 ラフェリエール城砦はユネスコの世界遺産に登録されていて、テレビの番組でも紹介されたことがある。殺風景な巨大な石の建造物で、今見れば“夢の跡”、権力の悲哀を象徴する。民衆への弾圧が禍して、アンリ王は金の銃弾をつかって自殺したと伝えられる。
 中南米諸国には、こうした独裁者が数多く輩出していて、一世紀以上にもわたる反乱と弾圧の歴史を彩っている。独裁者小説というのも多く書かれている。その代表的なものがコロンビアの作家・マルケスの『旅長の秋』である。
 現在、中東で拡がっている独裁に対する民衆の蜂起を見ていると、どうしても中南米のことを思い起こさざるを得ない。リビアのカダフィー大佐のつくった地下シェルターの映像は、二世紀も前のラフェリエール城砦を連想させる。中東では一世紀遅れで、中南米諸国がたどってきた歴史が再現されようとしている。
 独裁と反乱の繰り返しという悪夢の道をたどることがないことを願うばかりである。

越後タイムス3月11日「週末点描」より)


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「鬼灯」公演成功裏に終了

2011年04月27日 | 日記
 越後タイムス創刊百周年記念事業の「鬼灯」柏崎公演を無事終了することができた。二日間とも満員で、五十人もの方々がアンケートに答えてくださり、それぞれに深い感動を書き記していただいた。
 島秋人を演じた高塚玄さんは前日柏崎の旅館で、緊張と不安のあまり眠れぬ夜を過ごしたという。「まるで処刑前日のようだった」とのことで、そのせいか島秋人が乗り移ったかのような演技を見せてくださった。
 演じている間は照明の関係で見えないのだが、観客の反応がビンビンと伝わってくるものだそうで、そこに強い緊張関係が生まれてくるようだ。「游文舎」の会場が狭かったことも、緊張感や客席との一体感を生み出す要因だったかも知れない。高塚さんはそんな緊張感の中で、途中から「この舞台を一秒でも長くやっていたいと思った」とまで言われた。
 前坂役の森田典子さんも「演じていて、観客の皆さんの心がこちらに伝わってきました。今までで一番、凛とした完成度の高い芝居になったと感じています」とのメールをくださった。柏崎以前の舞台を見ていないから何とも言えないが、そうだとすれば、語り芝居「鬼灯」は島秋人の故郷・柏崎で完成されたのだったかも知れない。
 島秋人の同級生や、吉田絢子さんの関係者もたくさん来てくださった。演ずる方にすれば、緊張するのが当たり前。しかし、その緊張が良い方向に働いた結果だったように思う。実行委員の一人として、役者さんにも観客の方々にも感謝しなければならない。
 ところで島秋人の『遺愛集』は品切れ状態。版元の東京美術では「わが社の財産」と言っているが、出版を巡る厳しい状勢から、増刷は考えていないとのことだ。しかし、アンケートではほぼ全員が増刷を希望するとの結果だった。
『遺愛集』は四十年以上もロングセラーを続けてきた、出版界でも異例の本として知られている。厳しい事情は分かるが、是非とも絶版にしないでほしい。柏崎が生んだ偉大な歌人として、島秋人の歌は読み継がれていかなければならないと考えるからだ。『遺愛集』が読めなくなってしまえば、せっかくの芝居の価値も半減してしまうだろう。

越後タイムス3月4日「週末点描」より)


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