玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ピンコロのこと

2011年07月14日 | 日記
 岩下鼎夫人の和子さんから、「ピンコロがリニューアルしたので、見に来てほしい」との電話があり、さっそく出かけていった。その前から玄関脇に「喜多川歌麿」や「竹久夢二」の表示があったので、「あ、遂にあれを出したんだな」などと思っていたが、行ってみてびっくり。
 部分的な展示替えを想定していたのに、かなり大幅な展示替えで、しかも岩下コレクションの秘蔵品ともいえるお宝が無造作に展示してある。思わず「記事にしてもいいけど、ドロボーが入りますよ」と鼎さんに言うと、「それでも構わない」と太っ腹である。だから「砂上録」で紹介させていただいた。
 中に、「為祥児兄 痴娯の家 小波題」と書かれた書が一点。巖谷小波が岩下庄司コレクションを「痴娯の家」と名付けた証である。五月八日に、小波の孫である巖谷國士先生をお連れした時にはなかったものである。これをお見せしたかったのに……。
 巖谷先生は、当日、ピンコロのコレクションに圧倒された様子で、「国宝級だね」としきりに感嘆されていた。先生と一緒に倉庫の中にまで入って、いわゆる「千社札」の膨大なコレクションを拝見したが、それはもう、開いた口がふさがらなくなるほどのものであった。まだまだ陽の目を見ていない貴重なコレクションがいくらでもある。
 今回展示の中で注目したのは、泉鏡花の小説の挿画を描いた鰭崎英朋と鏑木清方の美人画である。英朋の描いた鏡花作「続風流線」の口絵は、彼の最高傑作と言われる。清方もまた鏡花作品の挿画を数多く描いた人で、その作品は鏡花を耽読した者にとっては垂涎の的なのだ。
「ピンコロ」には、随筆も達者だった清方の自筆原稿もある。今回展示は版画だが、肉筆の挿画もあるはずだ。岩下さん、またこっそり見せてくださいよ。

越後タイムス7月1日「週末点描」より)


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戦争×文学

2011年07月14日 | 日記
 沖縄戦終結の日を前に、集英社から今月「戦争×文学」全二十一巻の刊行が始まった。迷わず全巻予約した。これまでも、戦争文学はよく読んできたが、そのほとんどは第二次大戦に関わるものであり、それ以前の戦争あるいはそれ以降の戦争の体験から書かれたものは、あまり読んではいない。
「戦争×文学」は現代編、近代編、テーマ編、地域編各五巻と、別巻「戦争文学年表・資料」から構成され、第一回配本は近代編「アジア太平洋戦争」と地域編「ヒロシマ・ナガサキ」である。
 一巻約八百頁もある。発刊記念特別定価は三千五百七十円。安い。一巻読むのに、最低でも一週間はかかる。飲みに出れば下手をすると一晩で一万円は吹っ飛ぶし、パチンコならもっとということもあり得る。読書ほど安上がりな楽しみは、そうはないのである。
「アジア太平洋戦争」を読んだ限りで、この巻だけでも、ハワイ・真珠湾、ジャワ島、オーストラリアからミャンマー、テニヤン、フィリピン、カラフトなど、広範囲にわたる戦場が登場する。つまり旧日本軍は、アジア太平洋のあらゆる地域に前線を拡大したのであり、それが広範な地域での戦争体験を生み、多彩な戦争文学を生んだ。
 しかし、だからこそ勝てるわけもなかった。長大な補給線を維持できるはずはないからだ。物資の補給もなく、治療もほどこされずに死んでゆく兵士達、飢えや乾きに苦しめながら戦いを強いられる兵士達の姿が、戦争文学でどれほど描かれたことか。
 この巻に三島由紀夫の「英霊の声」が収められていて、異質な一編となっている。二・二六事件の将校達と神風特攻隊の兵士達の霊が天皇を問いつめ、戦後日本の虚妄を撃つのである。自決に至る三島の歴史観がよく分かる作品であった。

越後タイムス6月24日「週末点描」より)


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堆積するファックス

2011年07月14日 | 日記
 東日本大震災と福島第一原発事故の発生から三カ月以上が経過した。三カ月前とそれ以降で、越後タイムス社にとって最も変わったことと言えば、ファックスの受信量が桁違いに増えたことだ。
 原子力安全・保安院からのファックスが最も多く、「東北地方太平洋沖地震被害情報(被害地域以外へのお知らせ)」と題する文書は十六日現在で第百三十九報に達している。一日あたり一・五報の勘定で、それぞれが二十頁くらいあるから、今までに送られてきた総枚数は二千六百枚にもなる。
 内容は福島第一原発事故の時系列的な報告や、保安院の対応、住民避難の状況などで、特に初期のものは緊迫感に溢れている。どういう訳か第一報から第三報までが欠落しているが、第四報は三月十四日午後四時三十分に発せられている。
 ところで、毎日二十枚も三十枚も送られてくるファックスに目を通している時間もなく、記述も専門的で分かりづらいので、ファックスはどんどん“堆積”していくことになった。東京電力からのファックスも含めて、その堆積物の高さは十六日現在で、三十センチにも達した。
 多分、ファックスは原発事故収束まで続くのだろう。三カ月で三十センチだから、年末までには九十センチに達する計算になる。紙代はたかが知れているが、トナー代がばかにならない。一本二千円もするトナーを月に二~三本使用する。
 貧乏新聞社にとっては大きな出費である。越後タイムス社としても原発事故の一日も早い収束を願うばかりである。

越後タイムス6月17日「週末点描」より)


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悪夢のような3ヶ月

2011年07月14日 | 日記
 まもなく東日本大震災から三カ月が経とうとしている。復興への道のりは遠く、福島第一原発事故の収束のめどもたっていない。激震は被災地の人達にとってだけでなく、我々にとっても未だに続いている。
 それにしても悪夢のような三カ月だった。震災から九日後の三月二十日には越後タイムス前主幹の吉田昭一さんが亡くなった。それから一月と十一日後の五月三十一日には「北方文学」の創始者の吉岡又司さんが亡くなった。
 大震災の混乱の中で、二人の先代を失ってしまった。今年は越後タイムス創刊百年の年であり、記念すべき良い年にしたいという目論見は見事にはずれた。それどころか、これまでの人生で最悪の年となってしまった。
 創刊百年にあたっては、記念講演会とパーティーをと考えていたが、とても祝宴を開く気持ちになれない。記念事業としては二月の「鬼灯」公演と、五月の「巖谷國士氏講演会」を実現できたので、それでお許しをいただきたい。
「越後タイムス」には、まだ十年携わってきただけだが、文学同人誌「北方文学」にはすでに三十五年以上関わってきたし、吉岡さんから編集を引き継いでからも十年以上が経っている。「北方文学」もまた、私にとって非常に重要な存在だ。
 今年は「北方文学」も昭和三十六年の創刊から、五十年目の年であり、平成二十三年は二重の意味で記念の年で、良い年にしなければならなかったのに残念でならない。しかし、「北方文学」六十五号・現代詩特集を中央の詩誌に優るとも劣らない、充実したものにできたことを、亡き吉岡又司さんとともに喜びたいと思う。

越後タイムス6月10日「週末点描」より)


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