玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

フランソワ・ビュルランの絵画世界2

2011年10月27日 | 日記
 十六点の作品の全てが、我々に「本能で見ろ」と命令をくだす。何が描かれているのか、描かれているものが何を意味しているのか解読を求める謎が仕掛けられているわけではない。そこに捕らわれていては、ビュルランと一緒に遡行の旅を続けることはできない。
 ビュルランの絵画を駆動しているのは、知性でもなければ理性でももちろんない。駆動力は“本能”に他ならず、ビュルランは“本能”の力で、ヒト以前の時代への遡行を続けるのである。だから、ビュルランの作品は、アール・ブリュットと呼ばれる作品との共通性を持つことになる。
 アール・ブリュットは、知的障害者や精神障害者の美術作品に対して与えられることの多い呼称であり、彼らもまた知性や理性ではなく、おそらく“本能”によって作品を作り続けていくのだから。ビュルランは障害者ではないが、“本能”を駆動させることによって、限りなくアール・ブリュットの世界に近づくのである。
 全ての作品が「本能で見ろ」と我々に命令する。知性も理性もかなぐり捨てて、我々は本能によって絵を見ることを強いられる。我々は我々自身の本能の底に降りていく。我々自身の本能の底に何があるのか、そのことをビュルランが示してくれている。
 原始の闇、それは、人間の本能の底、あるいは人間以前の生命の本能の底に通じている。ビュルランの作品を見ることは、だから、自らの本能に遡行する体験を、ビュルランその人と共有することに他ならない。岡本太郎は縄文の時代に遡行しようとした。式場庶謳子は原始時代の人間のエネルギーを解放しようとした。しかし、ビュルランの求めるものは、さらにその先、人類以前の生命の誕生する“闇の奥底”なのだ。
 謎はいくつもある。二人あるいは三人の呪術師の山羊髭がつながっていたり、山羊髭が半獣神のしっぽにつながっていたりする。場合によっては山羊髭が蛇に変身したりもしている。
 それがなぜなのか。知性や理性に問うことはできない。それは言うまでもなく本能に問われなければならない。我々が本能の底に降りた時に、おそらくそうした謎が解かれるのだろう。

写真はビュルランの作品とビュルラン展を見に来た作家の朝吹真理子さん