玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(2)

2016年05月15日 | ゴシック論

 10編の作品の中で私が最も凄いと思ったのは、ヘンリー・ジェイムズの「なつかしい街かど」であった。この作品は様々なアンソロジーに収載されていて、すでに2回は読んでいる。
 ポプラ社の「百年文庫」にも入っているし、ヘンリー・ジェイムズの短編集にも入っている。しかし何回読んでもよく分からない極めて難解な作品で、今回3回目に読んで初めて理解の糸口がつかめたような気がする。
 このアンソロジーの中でも、他の作家とは格の違いを見せつける重厚で、哲学的と言ってもよい作品である。ヘンリー・ジェイムズはしばしば"難解な作家"と言われるが、私は必ずしもそうは思わない。
 代表作『大使たち』にしたってじっくり読めば決して難解ではないし、恐怖小説の極北にある『ねじの回転』にしたって、その真意はともかく読みやすい作品ではある。
 しかし、「なつかしい街かど」だけはやはり難解な作品と言わざるを得ない。一種の分身小説なのだが、それが幽霊屋敷小説の形態をまとっていて、しかも夢の要素が絡んでくる。しかもその夢は現実を開示する夢であり、それもまた恐怖小説の要素であるとすれば、「なつかしい街かど」は恐怖小説の3つの要素が複雑に絡み合った作品だと言わなければならない。
 しかし、あの『聖なる泉』を吸血鬼譚のパロディとして読むことが出来るとすれば、「なつかしい街かど」は幽霊屋敷譚のパロディなのであって、そう言う読みから理解の糸口はつかめてくるだろう。
 だが"パロディ"という言葉は正確ではない。ヘンリー・ジェイムズは『聖なる泉』で吸血鬼譚をちゃかしているわけではないし、「なつかしい街かど」で幽霊屋敷譚を馬鹿にしているわけでもない。
 そうでなければあの大傑作『ねじの回転』は書かれ得なかったはずであり、ジェイムズは『ねじの回転』でも大まじめで幽霊屋敷譚を書いたのであるし、それに独創的な"ひとひねり"を加えたのであった。
 既存の幽霊屋敷譚にはあり得ない"ひとひねり"が何であったかについては、『ねじの回転』の項を参照して頂きたいが、それがあるからこそ『ねじの回転』は恐怖小説の極北にあり続けるのである。
 では「なつかしい街かど」でジェイムズは既存の幽霊屋敷譚にはないどんな"ひとひねり"を付け加えたのであろうか? そのことが「なつかしい街かど」についての私の最も大きな問題提起となるのである。
 主人公はスペンサー・ブライドン。生まれ育ったニューヨークを23歳で出て、おそらくロンドンで33年を過ごし、ニューヨークに帰ってきた男である。この設定は自身が故国を離れ、ロンドンを拠点として活動しながらも1904年に20年ぶりにアメリカに帰った(一時的にではあれ)という事実に負っている。
 ブライドンはニューヨークに二軒の家を持っている。一つは彼自身がニューヨークに所有していたもの、もう一つは兄弟達の死によって遺産として彼のものになった、彼自身の生家である。ブライドン所有の家は高層住宅に建て替えられている途中で、ブライドンもそのことを了承している。
 ニューヨークはロンドンと違って加速度的に変貌する街なのである。二つの家は対照的な存在となっている。一つは新しいニューヨークを象徴し、もう一つは古いニューヨークを象徴する。
 ブランドンは生家の取り壊しには抵抗し、毎日のように(ある時は日に二回も)その屋敷を訪れている。過去の自分に対面するためなのであろうか……。