荒俣宏という人はあの平井呈一亡き後、英米の恐怖小説に関しては日本で最高のアンソロジストであり、翻訳家であると思う。
河出文庫のこの『アメリカ怪談集』は1989年の発行であるが、21世紀も10年以上が経過し、恐怖小説のアンソロジーも出尽くし、それに収める作品もとうに底をついたかと思われた2014年に、『怪奇文学大山脈~西洋近代名作選』全3巻を世に問うたのには驚いた。
この3巻のアンソロジーのそれぞれ巻頭に置かれた精緻を極めた「まえがき」がすごい。それを読むと荒俣という人がこのジャンルに関して、いかに多くの作家に接し、いかに多くの作品を読み、いかに多くの文献に目を通し、いかに優れた分析を行っているかということが、はっきり分かる。
もう日本でこれ以上のアンソロジーが出版されることはないであろう。荒俣という人は、このジャンルのアンソロジーに終止符を打ったのである。
また翻訳家としての荒俣宏がいかに優れているかということも、『アメリカ怪談集』の中の3編、H・P・ラヴクラフトの「忌まれた家」、H・S・ホワイトヘッドの「黒い恐怖」、D・H・ケラーの「月を描く人」を読めば、たちどころに分かる。
この本に収められた13編の中で最もクリアーな印象を残すのが、荒俣の訳した3編であって、それは作品の出来というよりも、彼の翻訳の出来によるところが大きいように思われる。
特にラヴクラフトの「忌まれた家」は強い印象を残す。荒俣はこの本の解説で「幽霊と悪魔は大西洋を越えたが、妖精は大西洋の荒波を越えられなかった」と言っているが、その通りだと私も思う。
妖精譚はゴシック的なものとは一線を画すものであり、幽霊と悪魔こそはゴシック的なものの中核をなすものだからである。そしてそれを最も強く体現している作家がH・P・ラヴクラフトであると言ってもよいだろう。
「忌まれた家」は幽霊屋敷譚である。したがって『アメリカ怪談集』に収められた作品の中で最も恐い作品となっている。なぜなら、それが「閉鎖空間の恐怖と血統相続の恐怖」というゴシック的なものの神髄を保持しているからである。
アメリカ文学はゴシックの伝統を、その中核においてイギリス文学から引き継いだと言うべきだろう。このアンソロジーに収められたほとんどの作品について、それは言えることである。
私が拘り続けているヘンリー・ジェイムズの作品も含まれている。「古衣裳のロマンス」というその作品は、ヘンリー・ジェイムズとしては"ひとひねり"のない本格的な怪異譚であって、彼の作品としては例外的な部類に属するのではないか。
しかし、そんなオーソドックスと言ってもよい怪異譚においても、ヘンリー・ジェイムズはその力量を遺憾なく発揮している。一人の男を巡る姉妹の確執と、死んだあとも夫を取られた姉に復讐しようとする妹の凄まじい魂魄を描いて完璧である。
それにしてもこのアンソロジーに収められた13編の作品には、アメリカ市民生活の日常におもねるどのような作品も含まれていない。それが荒俣の編集方針だとしたら、それも又徹底していると言わなければならない。
日常性に回収されないある意味での"異常性"がどの作品にもあって、H・P・ラヴクラフトやアンブローズ・ビアス、そしてD・H・ケラーの作品に特に強くそれを感じとることができる。
それは多分、アメリカ文学においてゴシックの伝統が、より濃縮された形で伝承されたことを意味しているのではないか。ポオやその衣鉢を継ぐラヴクラフトの作品を読めば、そのことは一目瞭然だと思うし、前に取り上げたポール・ボールズのような作家の作品にもそうした徴候は見て取れるだろう。
アメリカ文学から眼を離すことはできない。
(この稿おわり)
荒俣宏編『アメリカ怪談集』(1989,河出文庫)
荒俣宏編『怪奇文学大山脈~西洋近代名作選』(2014,東京創元社)