玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』(1)

2016年11月18日 | ゴシック論

 平成元年に角川書店は角川文庫のリバイバル・コレクションというラインアップを出版している。創刊40年を記念して、古今東西の名作文庫30点を復刻したもので、セット定価が26,530円だった。読者アンケートによる限定出版だった。
 かなり豪華なラインアップであった。フランス文学ならネルヴァルの『暁の女王と精霊の王の物語』『ボードレール芸術論』『ヴァレリー文学論』ジャン・コクトー『阿片』、日本文学なら樋口一葉の『一葉青春日記』萩原朔太郎の『月に吠える』、その他浦松齢の『聊斎志異』、エイゼンシュイテインの『映画の弁証法』、オルテガ・イ・ガセット『大衆の反乱』など、など。
 昔の角川文庫はこのように古典ばかりが入っていたのだ。別に角川に限らず現在まで続いている文庫本はみなそうだった。そうした流儀を守っているのはもはや岩波文庫以外にはあり得ない。
 フランス文学に比重がかかっている。フランス文学だけで30点のうち7点を占めている。これはかつて日本においてフランス文学至上主義の時代があったことを反映している。「フランス文学にあらずして文学にあらず」というような風潮が、戦前から戦後の一定時期まで続いたのである。
 ウージェーヌ・シューの『さまよえるユダヤ人』まで入っている。フランス文学に関しては、いわゆる純文学的なものが主流であるのに、シューの大衆文学的作品まで入っているのに驚かされる。
 とにかく私はその当時は忙しかったので、いつか読んでやろうと思って全巻を購読した。購読したのでなくて、購入したのだった。それから30年近く。私はこのリバイバル・コレクションのうち、なんと柳田國男の『妹の力』以外まったく読んでいなかったのだった。
 最近思い本が重荷になってきたので、なるべく文庫本で読もうと思い、リバコレ(こう言ったものだ)を見直してみたが、シューなら簡単に読めそうだと思い、早速読みに懸かった。
『さまよえるユダヤ人』は新聞連載小説の走りということで、とにかく読みやすい。しかも大衆的な興味を掻き立ててやまない。そのためなら、どんな無理な筋の運びも許容されるし、多少の俗悪さも兼ね備えていなければならない。勧善懲悪的な趣向も欠かせないのだ。
 とにかくこの作品はシューの前作『パリの秘密』と並んで、国民的な人気を博した小説で、後のアレクサンドル・デュマ『三銃士』『モンテ・クリスト伯』等の先駆けとなった作品なのであった。
 だから、ネルヴァルやボードレール、ヴァレリーの作品と同列に扱えるような作品では毛頭ない。そこが読者アンケートの面白いところで、長らく絶版となっていて読者垂涎の一冊であったのであろう。『さまよえるユダヤ人』がラインアップの先頭に掲げられていることからもそのことが窺われる。
 よく見ると頁によって印刷に濃淡がある。初版は活版であったはずだから、在版による重版ではなく、写真製版による印刷だったのである。単行本の場合頁によって濃淡のある印刷など許されるものではないが、文庫本の場合はその辺の基準が緩かったのだろう。
 初版の日付は昭和26年11月15日になっている。私はまだ生まれていない。『さまよえるユダヤ人』文庫本初版出版の13日後に私は生まれている。40年ぶりの復刻だったのだから、真に復刻の名に値する出版なのであった。

ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』(平成元年、角川文庫リバイバル・コレクション)小林龍雄訳