玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』(2)

2016年11月20日 | ゴシック論

 ところで、シューのこの作品を「ゴシック論」のところで取り上げたのには、わけがある。『さまよえるユダヤ人』という作品にはゴシック的な要素がたくさんあるからである。
 まずタイトルの「さまよえるユダヤ人」からして、ゴシック的と言えるだろう。「さまよえるユダヤ人」というのはキリスト処刑の日に、刑場へ引かれるキリストを侮辱した罰として、キリスト再臨の日まで永遠に世界をさまようことを運命づけられたユダヤ人の伝説に基づいている。
 こうした設定は1820年に出版されたマチューリンの『放浪者メルモス』が、そっくりさまよえるユダヤ人の伝説を借りているのに共通している。メルモスは世界中どこにでも瞬時に出現出来るのだが、シューのユダヤ人もどこにでも出現する登場人物となっている。
 また小説の舞台が最初にベーリング海峡に設定されているのは、最後に北極圏を舞台にして終わるメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』の影響かも知れない。とにかくシューはゴシック・ロマンスを強く意識していたのである。
 またシューの前作『パリの秘密』の原題はLes Mystere de Pariで、アン・ラドクリフの代表作『ユドルフォの秘密』の原題はThe Mysteries of Udolphoである。シューがゴシック・ロマンスを意識していたことはこのタイトルからも窺うことが出来る。
 『ユドルフォの秘密』が一番早くて1794年、次が1818年の『フランケンシュタイン』、そして1820年の『放浪者メルモス』で、年代的に見ても影響関係は明らかである。ちなみに『放浪者メルモス』は1821年にフランス語訳されている。
『さまよえるユダヤ人』はしかし、『放浪者メルモス』でメルモスが抱くような大きな苦しみを持ってはいない。『放浪者メルモス』はボードレールが高く評価するほどに文学性の高い作品であったが、『さまよえるユダヤ人』はそうではない。
 メルモスは世界中のいたるところ、災厄に苦しむ登場人物達のところへ、悪魔との契約を肩代わりしてもらうために出現するのだし、そこにメルモスの人間的なドラマがあるのだが、『さまよえるユダヤ人』はまったくそうではない。
 シューのユダヤ人が何のためにいたるところに出現するのかと言えば、主要な登場人物をその苦境から救い出すためなのである。つまりシューのユダヤ人は、主要な人物がどんなに危機的な状況に陥っても、彼を救い出し、小説の筋を遅滞なく進行させるための御都合主義的な道具にすぎない。
 だから『さまよえるユダヤ人』などという思わせぶりなタイトルもまた、新聞大衆小説の扇情的な性質を補強する。小説の内容はレーヌポン伯爵が150年後の子孫に残した莫大な遺産をめぐる争奪戦というのにすぎない。小説の興味はいかに彼等が妨害を受けながらも、その遺産を正統に受け継ぐことが出来るかどうかに懸かっているのである。通俗を極めた作品にすぎない。