玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」75号発刊

2017年06月29日 | 玄文社

「北方文学」75号が発行になりましたので、ご紹介したいと思います。今号は338頁。長編が多く、前回お休みだった同人も健筆を振るったので、こういう結果になりました。このページ数は1999年の50号記念号の時の420頁に次ぐものとなりました。同人の意気盛んなところを見せることが出来たのではないかと思っています。もとより厚ければいいというものではありませんが、全国の文学同人雑誌が低迷を続ける中、質量ともに自信の一冊であります。
 巻頭を飾っているのは館路子さんの「名付け得ない鳥、その行方に」という長詩です。不在の鳥は「鳩」と明示されていますが、平和の象徴としての鳩のメタファーとしてだけでは語れない奥行きがあります。鳩とは何の象徴なのか、そんなことを考えさせる作品です。
 もう一編の詩篇は、2016年度の読売文学賞を受賞したジェフリー・アングルスさんの作品「赤い赤い生姜」。40年ぶりに再会した母親とのハワイ旅行という、私小説的なモチーフによった作品ですが、ハワイ原住民の創世記神話と自らの存在を交錯させた、短いけれど強い印象を残す作品です。
続く大橋土百の「幻影のコスモロジー」は、昨年秋にタクラマカン砂漠周辺を旅した時の詩的紀行文です。このてのものを書かせたら他に追随するもののない、大橋の独壇場ですね。
 評論が続きます。最初は柴野毅実の「山尾悠子とゴシック」。山尾悠子の初期の作品についてそのゴシック性を論じたものです。日本にはなぜゴシック小説が根付かないのか、その理由を解明し、ゴシックというものへの言語論的アプローチを敢行した、挑戦的論考です。
 石黒志保は久しぶりに「和歌をめぐる二つの言語観について」の2回目を書きました。日本の古典文学と仏教思想をとおして、言語論を展開するという未開の荒野に挑んでいます。だんだん面白くなってきました。
 斉藤直樹さんと若林敦さんの作品は寄稿です。どちらもハムレットを論じたものですが、いかにも対照的な書き方になっています。一方はシェイクスピアのテキスト以外のなにものも読まないというスタイルをもち、もう一方は映画作品をも参照して、ハムレットの本質に迫ります。
 松井郁子の「高村光太郎・智恵子への旅」は11回目で、これで完結です。鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩史」はまだまだ続きます。
 小説が久しぶりに3本。新村苑子の「満願日」は、最近書くたびに新しいプロットに挑戦する作者の、切れ味鋭い短編です。久しぶりの板坂剛の「ある夏の死」は、母親の死の秘密に関わる謎を父親の不可解な生き方と、フラメンコの暗い情念に託して描く、愛憎の物語です。
 魚家明子の長編「眠りの森の子供たち」は連載2回目となりました。ストーリーも佳境に入ってきました。それにしてもこの人の登場人物を生き生きと描き分ける力量はすごい。
 今号から表紙絵の担当が弥彦村の北條佐江子さんに変わると同時に、デザインも一新しました。まるで違う雑誌に生まれ変わったかのようです。

 以下に目次を掲げさせて頂きます。

館 路子*名付け得ない鳥、その行方に/ジェフリー・アングルス*赤い赤い生姜/大橋土百*幻影のコスモロジー/柴野毅実*山尾悠子とゴシック/石黒志保*和歌をめぐる二つの言語観について(二)/斉藤直樹*揺れるハムレットは何をもとめたのか?--To be, or not to beにいたる狂態と確信のはざまをめぐる考察--/若林 敦*ハムレットの謝罪/大井邦雄*優秀な劇作家から偉大な劇作家へ(4)--シェイクスピアの一大転換点のありかはどこか--/松井郁子*高村光太郎・智恵子への旅(11)--智恵子の実像を求めて--/鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史-隣人としての詩人たち--(9)/新村苑子*満願日/板坂 剛*ある夏の死/魚家明子*眠りの森の子供たち(二)

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