玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(2)

2021年12月25日 | 読書ノート

『使者たち』のストレザーは、チャドとヴィオネ夫人の関係に対して傍観者的な位置にいる。彼はチャドの変貌について、それがヴィオネ夫人の高潔な人格による感化がもたらしたものと考え、チャドをアメリカに連れ戻すことを断念し、ミイラ取りがミイラになるごとく、アメリカ人の物質的価値観に対して、ヨーロッパ人の精神的価値観の味方に転じるのである。

 しかし、ストレザーはパリにおける彼の案内人であるゴストリー嬢に対しても、何事かを訴えようとしているかに見えるヴィオネ夫人に対しても、決して積極的に動こうとはしない。あくまでも傍観者として、恋愛関係に入ることを避け続け、チャドとヴィオネ夫人に対しては観察と考察を続けるのみである。

『ロデリック・ハドソン』のマレットもまた、ハドソンと彼がアメリカに置いてきた許嫁ガーランドとの関係について、自身彼女に恋心を抱いているにも拘わらず、そこに介入しようとはせず、見守るばかりである。さらに、ハドソンとクリスティーナ・ライトとの関係に対しても、それに深い危惧の念を抱いているにも拘わらず、あるいは彼女が助言を欲しているにも拘わらず、決してそこに介入しようとはしない。

 マレットの恋愛に対する臆病と言ってもいいほどの消極性は、ハドソンに責められるほどに極端であって、これは多分に生涯独身を通し、浮き名も流さず、同性愛者であったという説もある、ヘンリー・ジェイムズ自身の性癖から来ているものに違いない。

 しかし、それを言ったところで作品論にはならないので、もっと別の角度からこのことを考察する必要がある。それは、ジェイムズのいわゆる〝視点〟の方法に関わる問題である。『使者たち』も『ロデリック・ハドソン』も、一方はストレザーに、もう一方はマレットに唯一の視点を定めるという方法を採っている。

 視点の方法を貫くには、作者自身に近い男性の主人公に視点を置くのが一番やりやすい方法だと考えられる(ストレザーは主人公だが、マレットはそうではないにしても、主人公に準じる位置にいる)。世に数ある一人称小説はそのようにして書かれるのであるから。ただ一般の一人称小説とジェイムズの視点小説の違いは、絶対化された主人公と相対化された主人公との違いに還元されるものと言える。一人称小説における絶対化された「わたし」は、ある種盲目であることを許される。彼が恋愛に陥った場合、自分の感情に対して分析的に対応するのは不可能であり、一人称小説はそれを断念せざるを得ない。

 一方視点小説における主人公は、恋愛関係を自身の外側に置き、ひたすら観察と分析に耽ることができる。傍観者であるということはそういうことを意味していて、つまりは視点小説とは行動を犠牲にして分析を得る小説のことなのである。ジェイムズの場合、彼は自身の恋愛を犠牲にしてはじめて視点を獲得するのだと言うこともできる。ヘンリー・ジェイムズがはじめて視点の方法を確立できたということは、そのような事情によっている。彼は恋愛不能者であることで、視点の方法を得ることができたのである。

 視点小説を一人称で書くとどうなるかという実験は、ジェイムズが『聖なる泉』で行ったことである。主人公の「私」は彼の周囲にいる男女の関係について、ひたすら観察と分析を重ねるのであり、そのこと自体が作品のテーマと化している。彼の論理は強引極まりないものであり、いわば彼の視点は、暴走を繰り返す。それを相対化するのが主人公の論理を否定するブリセンデン夫人であり、この相対化によってかろうじて『聖なる泉』は救われることができている。ジェイムズは『聖なる泉』において、三人称的に一人称小説を書いたのである。

 ならば『使者たち』や『ロデリック・ハドソン』は、一人称的に書かれた三人称小説ということができ、ジェイムズの視点小説とはそのようなものであって、視点人物はいつでも相対化され、傍観者であることを強いられるのである。