玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(2)

2022年02月21日 | ラテン・アメリカ文学

 話を『シンコ・エスキーナス街の罠』に戻そう。この小説のストーリー・ラインはおよそ4つある。一つは実業家エンリケ・カルデナスの妻マリサと、彼の弁護士ルシアノ・カサスベージャスの妻チャベラとのレズビアニズムと、それに巻き込まれて3Pの行為に至福の時間を過ごすエンリケの倒錯の世界。もう一つは二年前エンリケが騙されて参加した、娼婦たちとの乱交パーティの写真をネタに、彼を恐喝する「デスタベス」(暴露の意味)の編集長ロランド・ガロの動き。そして、ガロによってテレビの仕事を失い路頭に迷った、かつての吟遊詩人フアン・ペイネタのガロに対する怨恨。さらに、ガロを殺し、次の編集長フリエタ・レギサモンを利用しようとする、フジモリ大統領の側近通称ドクトルの暗躍。
 一見なんも関係もないとも思える4つのラインが交互に進行していって、最後に謎が解かれてそれらが複雑に絡み合っていることが判明するという構造は、推理小説的ということもできる。しかし、この方法はリョサが若い時から自分のものとしてきたものであり、『緑の家』(1966)や『ラ・カテドラルでの対話』(1969)などでもみられる方法なのである。
 このストーリーの多元性ともいうべき構造は、長編小説の基本であると同時に、政治小説には欠かせないものであって、時に通俗と紙一重になりながらも、『シンコ・エスキーナス街の罠』がかろうじて持ちこたえているのはそのためである。単純化していえば、権力の構造が多元的なストーリー展開の中で徐々に明かされていくのであるが、権力というものはあらゆる所にその食指を延ばしていくものだからである。
 第20章「つむじ風」は、私が「シャッフル」と呼んでいるリョサの若い頃の方法を久しぶりに再現して見せてくれている。めまぐるしく時間と空間が移動し、マリサとチャベラのレズビアンの描写の後に、何の断りもなくドクトルがフリエタ・レギサモンを脅す場面が続き、エンリケの乱交パーティの後に、何の説明もなくガロ殺しの容疑で捕まったフアン・ペイネタの場面が接続されるという具合になっている。
 リョサの初期の作品ではこうした手法が多用されていて、そのためにストーリーを追うのが困難になったり、いささかうるさく感じたりすることがあった。『ラ・カテドラルでの対話』や『パンタレオン大尉と女たち』などの作品では、全編にわたってこの手法が使われているために、その実験的な意義は認めつつも、どうしてわざわざ小説を分かりにくくさせるためにこんな手法を使うのかと、疑問さえ感じたのだった。
 映画でいうモンタージュに近いこの手法を、私は「シャッフル」と呼ぶことにしたのだった。それが小手先の手法に見えることもあることから、私はそう呼んだのである。しかし複数の出来事が同時進行する場面を、極めて強い緊張感のもとに描くことができるという効用もあったことは確かである。ただ、それが成功している時は良いが、失敗したらうるさいだけなのである。
 リョサは『パンタレオン大尉と女たち』を最後に、この手法を封印してきたから、二度とこれを使うことはあるまいと思っていたが、彼はおよそ40年ぶりにこの手法を復活させたことになる。ただし使い方は大きく違っている。初期の作品では、いたるところで、さしたる必然性もない場面でも、この方法をいわば乱用していたが、『シンコ・エスキーナス街の罠』では第20章に限定して使っているのである。
 この違いは私にとって、「シャッフル」の手法にまだ可能性が残されていたのかという感慨を抱かせるものであった。リョサは第20章にすべてのストーリーを集合させ、それぞれのラインの隠された謎の解明を一挙にやってのけているのである。久しぶりに目の覚める思いがした。