ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

首都圏生活保護支援法律家ネットワーク

2007年05月08日 01時16分55秒 | 障害者の自立

DPI日本会議からの緊急提案です。
お困りの方は是非とも相談してください。


DPI日本会議
 山本 創
 このたび日弁連において「首都圏生活保護支援法律家ネットワーク」
が立ち上がり、生活保護申請時の支援が開始されました。
市区町村の窓口では障害者や病者等においても、申請すら受け付け
てもらえない等の問題がおきています。当事者にとっては生活保護は
生存権の最後の砦です。ここでだめならと自分を追い込んで、窓口に
むかう人も多く、必要とする人にどれだけネットワークを広げられる
か、IT等の媒体につながっていない方にもいかに広げていけるかが
重要となっています。
 是非、広報等ご協力をお願いいたします。
 設立についての説明文とチラシを添付いたしました。ご活用いただ
ければ幸いです。よろしくお願いいたします。

<常設の相談先> 
048-866-5040(埼玉総合法律事務所)
   *平日 午前10時から午後5時まで

<生活保護110番>
 0120-633-510(マザーシップ司法書士法人)
   *2007年5月10日(木)午前10時から午後4時まで

 昨年5月23日に発覚した、生活保護申請拒絶による北九州市餓死事
件から1年が経過した本年5月に、事件を風化させず、二度と 餓死事
件を起こさせないように、下記の日程で「生活保護110番」を実施し
ます。電話は6回線を使い、首都圏にいらっしゃる方については相談受
付を兼ねた対応をし、また、首都圏以外からの相談にも適切なアドバイ
スを実施していく予定です。

会場 マザーシップ司法書士法人/マザーシップ法律事務所
   新宿区四谷1-7 日本写真会館4F

3月・4月の厚生労働省有識者会議報告の転載

2007年05月08日 00時11分19秒 | 制度の話し
私の知り合いの障害者団体がまとめものです。参考にしてください。


3月・4月の厚生労働省有識者会議報告
3月
 3月7日に第6回介護保険制度の受給者・被保険者に関する有識者会議が開催されました。有識者調査では、範囲拡大については慎重論・反対論が6割以上を占める結果となっているものが示されており、前回の障害者団体のヒアリングとあわせて、委員からも拙速な議論は避けるべきとの意見が出されています。一方、介護保険を障害や年齢で対象を区切らない「普遍的サービス」とすることには強い反対意見もみられず、現時点では困難だが「将来的には」という言葉で先送りする意見も出されています。
 後半のまとめに向けての議論では、資料5として厚労省事務局から出された論点整理が、統合を前提として書かれている部分があり、修正を求める委員もいました。
 次回会議は4月10日に予定され、今日の資料5をたたき台としてとりまとめへの議論がされます。また、事務局、座長からは5月中には報告書として会議の結論をまとめたいとのスケジュールが示されています。
 ホームページにに傍聴メモと資料をアップロードしています。
4月
 4月10日、第7回介護保険制度の受給者・被保険者に関する有識者会議が開催されました。今回はこれまでの議論を踏まえてまとめに向けた論点整理が事務局より示され、また4名の委員からまとめの意見書が提出されした。
 これまでの障害団体のヒアリングや、有識者調査では被保険者・受給者の範囲拡大については慎重論・反対意見が多かった状況でしたが、今回はうってかわって、多くの委員が「介護保険の普遍化に賛成」という持論を展開し、「年齢や疾病で限定することなく、介護保険を普遍化へすることに反対はないのではないか」という意見も出されました。企業負担増を懸念する経営者団体と保険料徴収や後期高齢者医療保険などの負担増などを危惧する市長会、町村会は依然として拡大に異を唱えていますが、この会議自体がもともと賛成派の多い委員構成であるため、普遍化への議論が加速している感が否めません。障害者団体の総じての反対・慎重論や、有識者調査の結果をないがしろにした議論になっており、今までの議論は何のためだったのか、結論ありきの会議ではないかという疑念を持ちます。またこの間厚生労働省は「介護保険の拡大」「障害者施策との統合」と言うのではなく、「介護保険の普遍化」という言葉を用いていることにも懸念があります。社会保険としてより幅広く、制度の谷間をなくし、誰でも使える制度にということをことさら強調しており、3年前に「統合」という言葉を使い、失敗している轍を踏まないとして、「当たりの良い」言葉を使っているようにも思います。この「普遍化」というのが何を意味するのか、厚労省は「要介護になった理由、年齢を問わず、すべての介護ニーズに応えることを目的とした制度」としていますが、「すべての介護ニーズに応える」には現行の介護保険サービスは限定的なものであり、誰もが地域で生きていくために必要なニーズに応えるサービスを得られるという真の意味での普遍化とはほど遠いものといわざるを得ません。次回の会議では中間まとめ案が出される予定です。参議院選を前に負担増となる被保険者の拡大をどれだけ明確に示すかはわかりませんが、「一定の方向性=普遍化すべき」という方針を明確に示してくる可能性が危惧されます。場合によっては介護保険統合議論がにわかに再燃していくことも考えられます。
 次回は5月21日の開催予定になっています。注視が必要です。

介護保険の対象範囲拡大は2012年?

2007年05月08日 00時03分14秒 | 制度の話し
新しい情報です。

介護保険の対象範囲拡大は2012年?
厚生労働省、2009年度の統合は断念の模様
 厚生労働省の幹部は2009年度の介護保険への障害の統合を断念した模様です。しかし、その情報を新聞にリークし、統合賛成派の動きを期待しているようです。また、有識者会議などの外堀は「介護保険の対象拡大=普遍化」という方向で議論をまとめようとしており、次回の大きな改正の時期である、2012年には障害との統合を目指しているような状況です。
 現在、介護保険制度は財政難で、極端な締め付けにより家事援助を切り捨てており、ひどい市では、ALSでも連続3時間以上のヘルパー利用を禁じられている自治体もあるなど、障害ヘルパー制度に比べて悪い制度にどんどん変わっていっています。介護保険では家族と同居でも、1人暮らしと限度額が変わらないので、不要なサービスを民間営利企業などが進めているといった問題点も、制度利用締め付けの原因になっています。数年前に比べても、介護保険との統合は大変危険になってきています。障害ヘルパー制度は介護保険に入れずに税金を財源に予算を増やしていく運動を全国的に行わないと、危険な状況です。

福島先生(その3)

2007年05月05日 00時08分48秒 | 障害者の自立
福島先生の最後のご紹介です。
私はここなかに出てくる「挑戦」言う部分が一番好きな文章です。
私の教科書みたいになってます。福島先生が言われる「挑戦」を私は一生続け生きたいです。


 私は盲ろう者になって、その体験から二つのことを学んだように思います。一つは、人間は一人ぼっちでは生きていけないということです。他者とのかかわり、他者とのコミュニケーションがなければ、どのように知識や情報があっても、あるいは、すばらしいご馳走を食べていても、生きる上での魂のエネルギーは湧いてこないということです。そしてもう一つは、どのような困難な状況にあっても、可能性がゼロになるということはない、チャレンジし、現状を変革していく可能性は必ずある、ということです。
 皆さんは、これまで大変な困難を乗り越え、チャレンジし、そして東京大学に入学なさいました。これはすばらしいことです。これからも、学生時代や大学を卒業して社会に出てからも、様々な種類の困難やチャレンジを経験なさると思います。最後に、困難に挑戦するということについて私が考えることを申し上げます。
 私は「挑戦」とは、一人だけでがんばって一人だけで成果を得ることではなく、常に有形・無形の他者の手助けと共にあるものだと思います。
 挑戦とは、単に無謀な危険を冒すことではなく、地道な努力と準備があって、成功するものです。
 挑戦とは、相手を打ち負かして競争に勝つことを意味するのではなく、その本質は、自分自身に挑戦することです。
 挑戦とは、他者の立場を想像する力と、他者と協力しながら新しいものを生み出していく営みです。
 挑戦とは、ときに孤独なものですが、一人だけで生きている人間は世界中どこにも存在しません。周囲の人とのつながり、他者とのコミュニケーションを常に重視すべきです。
 そして、挑戦とは、常識的な意味での社会的な名誉やステータスを得ることだけがその目標なのではなく、自らがしっかりと生きていくこと、そして自分と他者が共に生きていくことを支えていく営み自体の中に、本当に困難な部分があり、その営みこそが最も重要な挑戦なのだと思います。

 私は先ほど、「宇宙人に会うのが夢だ」と申し上げました。その夢は今も変わりませんが、実は既にその夢の一部は実現しています。なぜなら私たち全員は地球上にあって、太陽の周りを回りながら、そして天の川銀河の回転に乗りながら、大宇宙を共に旅する存在であり、まさに宇宙に共に生きている「宇宙人」同士だからです。
 とはいえ、皆さんと、たとえば盲ろう者の私との間には、様々な相違点があり、大きな距離が開いているかもしれません。見えない聞こえない私には、直接皆さんを把握することはできないからです。しかし、考えてみれば、人は皆、直接、他者の本質を把握することはできません。できるのは、互いの魂にそっと触れ合うことだけです。そうであればなおのこと、互いに触れ合うことを大切にしていきましょう。共に宇宙を旅する仲間として、これからも一緒に歩んでいきましょう。そして、東京大学というフィールドを拠点にして、新しい冒険とチャレンジの歴史を築いていきましょう。
 本日はおめでとうございました。

福島先生その2

2007年05月04日 00時35分25秒 | 障害者の自立
福島先生の第2回目です。
これでも長いので三回にわけます。


「盲ろう者」といっても、なかなか一般的には通じませんが、あのヘレン・ケラーさんと同じ障害だと言えば、少しおわかりいただけるでしょうか。見えなくて、同時に聞こえないということは、主観的には、自分がこの地上から消えてしまって、まるで地球の夜の側の、真っ暗な宇宙空間に連れて行かれたような感覚に襲われる状態でした。何も見えず、何も聞こえない、いつまでも続く静かな夜の世界。それは言葉で表現できないような孤独と絶望の世界でした。
 私が最もつらかったのは、見えない・聞こえないということそれ自体よりも、周囲の他者とのコミュニケーションができなくなってしまったということです。私から声で話すことはできました。しかし、相手の返事が聞こえず、表情も見えない私には、会話をしようという意欲さえなくなっていきました。コミュニケーションとは、双方向的なものなのだな、とそのとき理屈抜きにつくづく実感しました。もう一つ強く実感したのは、人間には、空気や水や食べ物と同じように、コミュニケーションが生きる上で不可欠なものなのだな、ということでした。私がこうした絶望の状態から抜け出せたのは、母が偶然思いついた「指点字」という会話方法、点字の仕組みを応用して指先でタッチするコミュニケーション手段のおかげでした。それは、指から指に伝えるペンと紙を使わない速記のようなものです。このように、指先で私の指先をタッチしてもらいます。「あ、い、う、え、お・・・」と、このように伝えてもらうわけですね。ここで少しゆっくりと実演してみます。(※ここで、横に立つ通訳者に「あ、い、う、え、お」と伝えてもらい、指点字のデモンストレーションをする。)

 私が絶望の状態から抜け出せたのは、もっと正確に言えば、この指点字という手段そのものではなく、その手段を使って実際に話しかけてくれたり、周囲の人の言葉や周りの様子を伝えてくれたりする「指点字通訳」というサポートをしてくれる人たちが私を助けてくれたからです。私はこの指先で伝えられる言葉の力によって生きるエネルギーを与えられました。
 話は飛びますが、私も10年ほど前から、パソコンと特別なソフト、そして点字のディスプレー装置などを組み合わせて、Eメールをしていますが、私のEメールでのハンドル・ネームは、ETです。これは「エクストラ・テレストリアル(Extraterrestrial)」、つまり地球外生命体、要するに宇宙人の意味の略称ですが、私が盲ろう者になって、指点字を使い始めた1981年の翌年、スピルバーグ監督で有名になった映画のタイトルでもあります。その映画には、自らをE.T.と呼び、地球の花や木に指先で触れることで会話ができる宇宙人が出てくるので、それに引っかけたハンドル・ネームです。つまり私は自分が盲ろう者になって、いったん失った耳で聞くコミュニケーションを、今度は指先のコミュニケーションとして取り戻すことができ、これは宇宙空間のような状態から地球に戻ってきたまるでE.T.のような存在だと自分のことを半分冗談、半分本気で思っている、ということです。
 さて、話を戻しますが、私は高校2年生で盲ろう者となったわけですけれど、そのときは、そもそも高校を卒業できるのかどうかさえわかりませんでした。もともと大学への進学を希望していましたが、目が見えないだけでなく、耳も聞こえなくなったので、はたして大学進学などできるのかどうか、また進学はできてもその後、大学での生活が送っていけるのかどうか、更に言えば、もし大学を卒業したとしても、その後、仕事があるのかどうか、などなどと将来のことを考えていると、不安なことばかりでした。
そんなとき、私の高校時代の担任の先生は次のようにおっしゃいました。「先のことをいろいろ考えたって誰にもわからないよ。日本の盲ろう者で大学に進学した人はこれまでいないそうだけれど、前例がないなら君がチャレンジして前例になればいいじゃないか。君が大学進学を希望するなら応援するよ。うまくいかなければ、そのときまた考えればいいさ」と。そして、指点字の通訳者を育てたり派遣したりして、私の大学進学や入学後の生活を支えてくださいました。
 こうして、私は1983年に東京都立大学に入学することができ、教育学を専攻しました。その後、大学院に進み、研究者への道を歩み、都立大学助手、金沢大学助教授を経て、2001年からは東京大学先端科学技術研究センターでバリアフリー分野の助教授として学生の教育と同時に、広い意味でのバリアフリー論や障害学の研究などに取り組んでいます。また、東京大学全体の物的・人的双方のバリアフリー化を推進する「バリアフリー支援室」の活動にも参画しています。
 その一方で、私が大学に進学したことがきっかけとなって、日本でも盲ろう者について徐々に社会的に知られるようになり、私自身も、私と同じような障害を持つ盲ろう者のための福祉活動に取り組んで、現在、全国盲ろう者協会理事、世界盲ろう者連盟のアジア地域代表などを務めています。
 なお、世界で最も有名な盲ろう者であるヘレン・ケラーは、今から約一世紀前、世界で初めて盲ろう者として大学に進学した人でもあります。彼女の言葉に次のようなものがあります。「人生は恐れを知らぬ冒険か、それとも無かのどちらかである」と。日本はややもすると前例を重視する文化が支配的ですが、前例がなければ自分が前例になる。先のことがわからなくても思いきってチャレンジする。こうした冒険心が人生には必要でしょうし、そうでないとおもしろくないと思います。

 さて、話はアポロ計画に戻りますが、アメリカのアポロ計画、あるいは、人類の月面到達を最初に公にしたのは有名な35代大統領、ジョン・F.ケネディです。彼は1961年の時点で、「60年代中に月面への人類到達を実現したい」と議会で演説しました。これほどスケールの大きな夢の表明は、歴史上、あまり例のないことだろうと思います。そして、アポロ計画やアメリカという国そのものには、様々な問題や課題もあるでしょうが、このケネディの宣言を本当に実現してしまうということは、やはりアメリカという国の底力、そして人間の可能性のすごさを私は感じます。
 ところで、私は3年前、2004年の11月に、ワシントンで開かれたある国際シンポジウムで講演をしたのですが、その折、偶然、このジョン・F.ケネディの実の妹であるユーニス・ケネディ・シュライバーさんというとても元気のよい高齢の女性とお会いして、短い時間でしたが、面談する機会がありました。私は二つの意味で、とてもエキサイトしました。一つは、ユーニスがあのケネディの妹であること、そしてもう一つは、ユーニスが、知的発達障害の人たちのオリンピックである「スペシャルオリンピックス」を始めた人だからです。一般にはあまり知られていませんが、ジョン・F.ケネディの妹で、ユーニスのお姉さんにあたるローズマリー・ケネディという女性がいて、その女性は知的発達障害を持っていました。ユーニスが1962年に自宅の庭を開放して知的障害の人や関係者のためのデイキャンプを開いたのが、現在のスペシャルオリンピックスの始まりだと言われています。これはケネディがダラスで暗殺される前の年に当たります。
 ここで、スペシャルオリンピックスについて詳しく述べることはできませんが、簡単に申し上げれば、それは通常のオリンピックとは異なり、競争相手を打ち負かして、金メダルを取ることが真の目標ではないということです。それは多くの人の助けを借りながら、お互いの勇気を示し合う、そして競技が終わればみんなが表彰台に上り祝福し合うようなそんな素敵なオリンピックスだということです。一昨年、2005年の2月に、長野県でスペシャルオリンピックスが開催されましたので、テレビなどでご覧になった方もおられるでしょう。なお、このスペシャルオリンピックスが複数形なのは、日常的なトレーニングから世界大会に至るまで、いつでも、世界中のどこかで、この活動が行われているからです。そして、スペシャルオリンピックスの活動が目指す社会とは、一人ひとりの個人が自然に、あるがままに受け入れられ、認められるような社会だと言われています。
 私はユーニスとお会いしたとき、ジョン・F.ケネディが内面に秘めていたエネルギーの源の一部を垣間見た気がしました。ご承知のように彼は、一方で、ニュー・フロンティア政策や月面への宇宙探検など、アグレッシブで、アクティブな姿勢を重視しているわけですが、それはただ単に「強い者だけが勝ち残る社会、競争に勝った者だけが報われる社会」を目指していたのではなかったのではないか、と私は思いました。彼が真に価値を置いていたのは、すべての人間が、それぞれが抱える様々な条件と向き合いながら、自分と社会をより良く変革していくための努力とチャレンジをすること、言い換えれば、ニュー・フロンティアはどこか外部にあるのではなく、自分自身の中にあることを自覚することを訴えたかったのではないかと、私は感じました。