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聖書には、「教え」と考えると、良くわからない話がいっぱいある。
単純に、何か驚くようなことがあると、それが人から人へと話され、それが、たまたま、聖書編集者によって、ひろわれ、書物の中に残っただけ、と考えた方が良いのかもしれない。
『マルコ福音書』12章1-9節に、『マタイ福音書』21章33-41節に、また、『ルカ福音書』20章9-16節に、不在地主が、実際に土地を耕す農民たちにバカにされ、収穫期にそのあがりをもらうために送った自分のしもべや息子が殺される話がある。現在の標準の聖書理解では、「不在地主」が神様で、殺される「息子」がイエスだが、そんな解釈は無理なように私には思える。
放送大学で本郷和人の日本中世史を聞いていたら、同じようなことが、室町時代に起きていて、戦国時代の幕開けであるとのことだ。天皇の摂政である最高位の貴族でも、農民から収穫物が届けられなくなり、村に出かけていって交渉するのである。
村人の立場からすれば、色々な人たち、貴族や武士から収穫の納入を要求されるから、それなら自分たちのために、何をやってくれるのかということになる。
当然、収穫物の納入を拒否し、自分たちで自分たちを治める村も出てくる。
不在地主に実際に土地を耕す農民たちが逆らうのは当然のことではないか。
そんなものを、神とイエスのたとえ話と解釈するより、琥珀に閉じこめられた昆虫を発見するように、たまたま、2000年前の民衆の生の声が聖書のなかに閉じこめられた、と考えたほうが良いと思う。