猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

戦争の文脈で聖書の「殺すなかれ」はどう理解すべきか

2019-07-29 11:45:42 | 戦争を考える


聖書の「殺すなかれ」の理解に、2つの立場がある。絶対的に殺してはならないと、条件つきでの殺してならないと、である。

第2次大戦中、日本の「灯台社」(現在のエホバの証人)の信者らは、戦争で人を殺すこと、銃をにぎることを拒否した。灯台社の信者らや指導者は、当時の日本政府により1939年に一斉に逮捕され、敗戦後の1945年10月まで釈放されなかった。指導者の明石順三と同時に逮捕された妻、明石静栄は1944年に獄死している。

他の多くのキリスト教会も、「人を殺すなかれ」の立場から、戦争に反対した、と私は長らく思っていたので、灯台社が例外的であることを知ったとき、驚いた。国家が人殺しを命令する戦争に反対しない教会がなぜ多かったのか、納得いかなかった。

私は、キリスト教の信仰に、「殺すなかれ」を絶対的に殺してはならないと理解する立場と、条件つきでの殺してならないと理解する立場があるのでは、と疑うようになった。さらに、この立場の相違は、現在のキリスト教の聖典に旧約聖書と新約聖書とがあることに起因する、とも考えるようになった。

旧約聖書とは、イエスの出現の以前にあった、エルサレムの祭司が聖典としていた書物である。日本で「律法」と呼ばれるものは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のモーセの5書をさし、旧約聖書の重要な一部をなす。

旧約聖書では、条件によっては、人を殺しても良いのである。神を冒涜するもの、神に従わないもの、占いをするもの、まじないをするもの、姦淫するもの、隣人から盗みをするもの、安息日に働くもの、などなどは殺さなければならないとする。

旧約聖書は世俗的権力の一翼を担う祭司階級によって編集されたと現在は考えられている。統治者は、対外的には戦争を行って人を殺し土地を収奪するし、対内的には権力に逆らう者を殺害したり拷問したりする。そうする必要があると考えた人たちが編集した旧約聖書は、当然、条件つきの「殺すなかれ」となる。戦争する権利、人を殺す権利を主張する。

新約聖書は、イエスの行いと言葉を記す4つの福音書、イエスの使徒の行いと言葉を記す使徒行伝、イエスの弟子たちが記したと考えられる手紙、黙示文学からなる。

新約聖書で描かれる、下層階級のイエスや使徒たちは、権力者をののしり、安息日にまじないで病人を治そうとするから、旧約聖書の立場の人たち、すなわちエレサレムの祭司たちや統治者からは、殺害しなければならない対象になる。このことは、4つの福音書と使徒行伝に共通して繰り返し記述されている。

したがって、新約聖書の「殺すなかれ」は、絶対的な「殺すなかれ」である。

田川建三は『書物としての新約聖書』(勁草書房)の中で、新約聖書が旧約聖書を引用するのは、イエスの出現と死が予言されたものであることを示すためにだけだ、と指摘している。すなわち、イエスや使徒たちは、旧約聖書が自分たちが守るべき掟の集まりとは考えていなかった。

コリント教会の信徒へのパウロの手紙2(コリント書2)の3章6節に「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(口語訳)とある。
ここでの「文字」は、元の新約聖書では、ギリシア語γράμμα(グラマ)と書かれており、正しくは「書物」あるいは「証書」と訳すべきである。4つの福音書とも強烈に批判する「律法学者」はγραμματεύς(グラマテウス)の日本語訳であり、γράμμαを語源とする。したがって、「文字」ではなく、「律法」すなわち「モーセの5書」に仕えることをパウロは批判しているのである。

さらに、田川建三は、この節を言葉どおり、パウロが書物に頼るな、聖典をもつなと言っている、と読み取る。

新約聖書が聖典とされたおかげで、イエスや使徒がどのように考えて生きたか、死んだか、が今わかる。それで、聖典を持ったこと自体を非難しないが、旧約聖書を聖典としてありがたがるのはやめた方が良いと思う。

「異端者」を焼き殺したのも、「魔女」を焼き殺したのも、国家が起こす戦争に若者を追いやったのも、旧約聖書を倫理規範として読むことに起因する。神父や牧師は、イエスや使徒のように、「律法」の誤りを教会で述べるべきである。さらに、新約聖書も旧約聖書も文学書として読むことを勧めるべきである。

感傷的に戦争を振り返る、あるいは振り返りもしないテレビ

2019-07-29 11:17:22 | 戦争を考える


つぎは4年前に書いたブログ『感傷的に戦争を振り返るテレビ、「軍神」や「特攻隊」』である。もしかしたら、今年、テレビは戦争を振り返りも しないかも しれない。

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暑くなり、8月を迎えるようになると、例年、日本陸軍の関東軍や日本政府の起こした戦争を感傷的に振り返るテレビ番組が多くなる。「軍神」や「特攻隊」の感傷的賛美が始まる。理性的になって、戦争とは何で、どうして起きたのか、振り返る必要がある。

その前に私も感傷的になって言わしてもらえば、私の母の実家は、戦前のことだが、戦争を讃美しなかったため、近くの神社の目の敵とされ、祭りのたびに、神主が先頭に立ち、祭りの神輿を引き連れて、家を壊しに来た。
私の父は、兄が母の胎内にいるとき、赤紙で徴集され、関東軍の一員として、中国戦線に送られた。当時の徴兵は、20歳になった若者だけが駆り出されるのではなく、父のように兵役が終わって市民生活を送っていた者までも、戦場に送られるのである。戦地で人を殺すのも殺されるのも嫌だった父は、出世と関係なく万年二等兵で、殴られっぱなしだった。戦後、一年以上して、負傷兵として、中国から日本に帰還した。
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さて、先日の『時事小言』で藤原帰一は、「第2次世界大戦」と言わず、「日中戦争、そして太平洋戦争」と書いていた。日中戦争とは1937年9月の「支那事変」を指す。当時は「戦争」と言わず、「事変」と言った。戦争をしていることを隠していたのである。日本の軍隊に逆らうから自衛のため武器を使用していただけだが、当時の政府の見解である。日本兵も中国の兵も民間人も「事変」で死んだ。
父は、誰を殺したとは言わなかったが、戦争の前線に物資の補給はなく、食べ物を求め、民家を壊して、隠している食べ物を奪っていたと言う。父は日本兵として集団で強盗をしていたわけである。強盗殺人もあったのではないかと私は思っている。
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半藤一利は『昭和史1926-1945』で、戦争の始まりを1928年6月4日の張作霖爆殺事件におく。これは日本陸軍の関東軍参謀の河本大作大佐の暴走であったという。当時の首相は、天皇からの質問に、シラをきってごまかしたという。よくわからないのは、日本政府が、関東軍の暴走を放置し、やりたいようにやらしたことである。これは、日本の陸軍の統制がきかないということであり、明治憲法に定める、天皇が軍を統帥するというのが、無視されていたことになる。1931年9月18日に「満州事変」が始まるというが、実質的な中国東北部への侵略は、張作霖爆殺事件に始まる。

日本の陸軍が中国侵略を始めるのは、ヒトラーが政権を握る1933年より前である。日本政府が中国と戦争していることを認めた1937年(「支那事変」)でさえ、ヒトラーがポーランドに侵略する1939年の前である。

半藤一利によれば、日本軍の中国からの撤退を米国政府が求めたとき、経済封鎖になる前に反撃をと、日本政府が1941年12月8日ハワイの軍港に奇襲攻撃したことが、太平洋戦争の発端であるという。
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丸山眞男は、戦後、1946年からの東京裁判の戦犯を含め、誰も自ら戦争を起こしたとは言わないことを問題として指摘する。日本陸軍、日本海軍は、組織的に、敗戦の1945年8月25日から、あらゆる資料を焼却した。資料を償却するとは、戦争犯罪に関与していたことを自ら認めている行為なのに、戦争を起こしたのは自分でないとするのは、明らかに卑怯者である。
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戦前の日本政府および日本軍の歴史的責任に無自覚な、現在の政権担当者に懸念を感じるとともに、メディアでの感傷的な戦争の取り扱いをやめて欲しい。「軍神」とは軍官僚がでっち上げた概念であり、日本古来の「神」とは全く異なるものである。「特攻隊」とは、敗け戦の中で軍官僚が考え出した、「自爆テロ」で、「特攻隊」の隊長も20歳そこそこで、若者見殺しの作戦である。