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聖書の「殺すなかれ」の理解に、2つの立場がある。絶対的に殺してはならないと、条件つきでの殺してならないと、である。
第2次大戦中、日本の「灯台社」(現在のエホバの証人)の信者らは、戦争で人を殺すこと、銃をにぎることを拒否した。灯台社の信者らや指導者は、当時の日本政府により1939年に一斉に逮捕され、敗戦後の1945年10月まで釈放されなかった。指導者の明石順三と同時に逮捕された妻、明石静栄は1944年に獄死している。
他の多くのキリスト教会も、「人を殺すなかれ」の立場から、戦争に反対した、と私は長らく思っていたので、灯台社が例外的であることを知ったとき、驚いた。国家が人殺しを命令する戦争に反対しない教会がなぜ多かったのか、納得いかなかった。
私は、キリスト教の信仰に、「殺すなかれ」を絶対的に殺してはならないと理解する立場と、条件つきでの殺してならないと理解する立場があるのでは、と疑うようになった。さらに、この立場の相違は、現在のキリスト教の聖典に旧約聖書と新約聖書とがあることに起因する、とも考えるようになった。
旧約聖書とは、イエスの出現の以前にあった、エルサレムの祭司が聖典としていた書物である。日本で「律法」と呼ばれるものは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のモーセの5書をさし、旧約聖書の重要な一部をなす。
旧約聖書では、条件によっては、人を殺しても良いのである。神を冒涜するもの、神に従わないもの、占いをするもの、まじないをするもの、姦淫するもの、隣人から盗みをするもの、安息日に働くもの、などなどは殺さなければならないとする。
旧約聖書は世俗的権力の一翼を担う祭司階級によって編集されたと現在は考えられている。統治者は、対外的には戦争を行って人を殺し土地を収奪するし、対内的には権力に逆らう者を殺害したり拷問したりする。そうする必要があると考えた人たちが編集した旧約聖書は、当然、条件つきの「殺すなかれ」となる。戦争する権利、人を殺す権利を主張する。
新約聖書は、イエスの行いと言葉を記す4つの福音書、イエスの使徒の行いと言葉を記す使徒行伝、イエスの弟子たちが記したと考えられる手紙、黙示文学からなる。
新約聖書で描かれる、下層階級のイエスや使徒たちは、権力者をののしり、安息日にまじないで病人を治そうとするから、旧約聖書の立場の人たち、すなわちエレサレムの祭司たちや統治者からは、殺害しなければならない対象になる。このことは、4つの福音書と使徒行伝に共通して繰り返し記述されている。
したがって、新約聖書の「殺すなかれ」は、絶対的な「殺すなかれ」である。
田川建三は『書物としての新約聖書』(勁草書房)の中で、新約聖書が旧約聖書を引用するのは、イエスの出現と死が予言されたものであることを示すためにだけだ、と指摘している。すなわち、イエスや使徒たちは、旧約聖書が自分たちが守るべき掟の集まりとは考えていなかった。
コリント教会の信徒へのパウロの手紙2(コリント書2)の3章6節に「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(口語訳)とある。
ここでの「文字」は、元の新約聖書では、ギリシア語γράμμα(グラマ)と書かれており、正しくは「書物」あるいは「証書」と訳すべきである。4つの福音書とも強烈に批判する「律法学者」はγραμματεύς(グラマテウス)の日本語訳であり、γράμμαを語源とする。したがって、「文字」ではなく、「律法」すなわち「モーセの5書」に仕えることをパウロは批判しているのである。
さらに、田川建三は、この節を言葉どおり、パウロが書物に頼るな、聖典をもつなと言っている、と読み取る。
新約聖書が聖典とされたおかげで、イエスや使徒がどのように考えて生きたか、死んだか、が今わかる。それで、聖典を持ったこと自体を非難しないが、旧約聖書を聖典としてありがたがるのはやめた方が良いと思う。
「異端者」を焼き殺したのも、「魔女」を焼き殺したのも、国家が起こす戦争に若者を追いやったのも、旧約聖書を倫理規範として読むことに起因する。神父や牧師は、イエスや使徒のように、「律法」の誤りを教会で述べるべきである。さらに、新約聖書も旧約聖書も文学書として読むことを勧めるべきである。