猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ETV特集『親亡きあと 我が子は…』への率直な感想

2019-07-25 21:51:26 | こころの病(やまい)

7月20日放送、7月25日再放送のETV特集『親亡きあと 我が子は…~知的・精神障害者 家族の願い~』は、私たち親にとって とても切実な問題を扱っている。

それなのに、どうも、視聴者の反響はイマイチで、とても残念である。単に、可哀そう、差別はいけない、で終わってしまいそうである。

過去の素材も使い、もう一度、編集しなおし、再挑戦してほしい。

私が思うに、内容がありすぎ、少なくとも、2つに分けた方がよいのではないか。タイトルに「知的・精神障害」とあるが、「知的・発達障害」と「精神的障害」とに分けた方がよいのではないか。抱えている課題が大きく違う。

もうひとつは、番組は、はっきりと社会や政府を告発すべきではないか。「障害者」とは「社会の支援を必要とする者」を意味する法律用語である。法律で支援体制がどのようになっているのか、実態はどうなのか、親たちはちゃんと利用しているのか、うまく機能しないのはなぜか、番組制作者は、親や支援者や識者の声をインタビューして視聴者に届けてほしい。

現在、障害者への福祉の実施主体は地方自治体にまかされており、地域格差も大きい。その上に、現代の支援は、利用者が制度に気づいて権利を主張しないと、放って置かれるようになっている。政府が多額の福祉予算を使っても、必要としている人たちに届かず、途中の福祉ビジネスが太るだけにも、私には見える。

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年齢に応じた知的精神的発達を見せない子どもを「神経発達症群」という。「知的能力障害」や「コミュニケーション症群」や「自閉スペクトラム症」はこの中に含まれる。重い知的能力障害では、自分で排泄できない、自分で食べることができないなどの問題を抱えることもある。

私は、自己を意識でき、他人とコミュニケーションができるように する教育がだいじだと思う。施設やグループホームで楽しく過ごすためにも、虐待されないためにも、自分があって、コミュニケーションできることがだいじだ。

コミュニケーションは音声による日本語でなくてもよい。ボディランゲージでもよいし、書くことでも良い。自分があって、自分を表現できることである。

東田直樹の『自閉症のぼくが飛び跳ねる理由』、『続・自閉症のぼくが飛び跳ねる理由』(エスコアール)を読んだとき、彼が、どうして、自分のことを、自分の心と体のことを、こんなにわかるのだろうか、私はおどろいた。言葉が出てこない症状だから、自閉症というより、現在の診断名では、コミュニケーション症群にはいるだろう。あるいは、ワーキングメモリーが少なく、知的能力障害かもしれない。しかし、すばやく脳がはたらかなくても、自分の心の動きを観察し、検討し、自分の意見をまとめることができるのだ。東田直樹は哲学者であり、詩人である。彼の教育に関わった人たちに敬意を表する。

まず、神経発達症群の子どもたちには質の高い教育がだいじなのだ。

教育は学校だけではない。多くの都市では「放課後デイサービス」が使える。ひとりの子どもを中心にかかわる広い意味での教育者たちの連携がだいじであるが、親が要求しないと、そのような「個別のケース会議」は開かれない。

つぎに、神経発達症群の子どもたちは、養護学校高等部を終えると急に社会人扱いにされ、社会の支援が見えなくなる。養護学校が世話してくれる作業所が唯一の社会とのつながりになりがちだ。

このとき、横浜市にソーシャルワーカーという職種があり、支援機関を紹介したりして、大人になった子どもの人生設計を助けてくれる。現在、ソーシャルワーカーを含め福祉事業はビジネス企業体である。よく言えば、利用者が福祉サービス企業を自由に選択でき、結果は自己責任である。地方自治体はこれらを監督する責任があるが、現実はとても難しいことで、形式的、あるいは、言い訳の証拠作りになりがちだ。

すなわち、支援の利用者は、権利意識をもたないと、支援の網から抜け落ちる。

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神経発達症以外の精神疾患(mental disorders)では、いったん年齢相応に発達するが、なにかのきっかけで、発症する。子どもが発症することもある。

番組では、ある患者に、テロップに「統合失調症」で「双極性障害」とでたが、そういうことはありえない。問題は、精神疾患の診断では、誤診が生じやすい。現在の精神医学はその程度のものだということを知っている必要がある。

神経発達症群の子どもたちの親に比べ、精神疾患患者の親は孤立しやすい。番組での、統合失調症の娘を殺した父親も、そういう孤立した父親だと思う。殺してしまった娘は生き返ることはない。だから、家で慰霊に向かって泣いているよりも、精神疾患患者の親たちを組織化して、孤立させない活動に、自分の残りの人生をかけるべきだ。

精神疾患の患者を病院に閉じ込めるとどうしても虐待が生じやすい。閉じ込めると、患者と医療従事者のあいだに、支配される者と支配する者との人間関係が生じる。日本だけでなく、全世界で知られていることだ。

そのため、入院ではなく、患者は自宅から病院に通うというあり方を、全世界で取っている。入院はやむをえない理由があり、本人が同意してであり、短期でなければならない。ところが、親が自分の子を見捨てることもあり、自分の住み家と自分の仲間をもつ必要が生じる。そのために、グループホームが必要なのである。

精神疾患は再発することがあるが、制御可能な病気である。家族関係があれば、それを維持した方がよい。孤独でないほうが、再発を防げる。

グループホームはその代替機構であり、管理者がいて、人間関係の維持構築にかかわるほうが望ましい。中村かれんの『クレイジー・イン・ジャパン べてるの家のエスノグラフィ』(医学書院)を読んで感動したが、「べてるの家」の成功は、ソーシャルワーカーの向谷地生良と、精神科医の川村敏明とがいたからと思う。ユートピアは個人の努力でつくられ、個人の死で崩壊するものと思う。

神経発達症群のヒトも、そのほかの精神疾患のヒトも、人である。親としては、自分の子どもに「人としての敬意」を払ってほしい。そのためには、親は権利意識をもって、連帯しないといけない。