『フォレスト・ガンプ/一期一会(Forrest Gump)』は、日本でもアメリカでも大ヒットした、1994年公開のアメリカ映画である。
主人公のフォレスト・ガンプは、シングルマザーの子で、知的能力障害(Intellectual Disability)で、しかも、学童期には背骨の矯正装身具をつけていた、いじめられっ子である。それなのに、周りの人間が 不幸なままなのに、主人公は、どんどん成功し、お金持ちになっていく、という物語である。
多くの人の願っている おとぎ話だからから、ヒットしたのである。
“Mam always said life was like a box of chocolates. You never know what you're gonna get”(人生て箱の中のチョコレートみたいもの、(食べないと)おいしさが分からない、とママがいつも言っていた)
というフォレストのつぶやきセリフも大ヒットした。
そういえば、講演で、言語聴覚士の中川信子は、「発達障害児」を抱える親に向かって、「自分の子がどんな大人になるか、神様からもらった球根だと思って、どんな花が咲くか、楽しみにして、毎日毎日世話をしてください」と言っていた。彼女の言葉はフォレストのセリフと相通じるものがある。
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フォレストは、知能テストの成績が悪くて、田舎の小学校の入学を拒否されたが、母親が校長と交渉して、入学が許可される。
このとき、校長は、フォレストのIQが75点だから、入学させられないと言った、と私は記憶している。アメリカで、こんなことで、入学を拒否できるのか、拒否された子どもは、どこに行けば良いのか、と思ってしまった。
IQは、知能テストの成績を、100点が平均で、15点が標準偏差になるように、調整した、知能指数である。アメリカの精神医学会では、伝統的に、IQが70を知的能力障害か否かの境としてきた。
しかし、2013年発行の最新の診断マニュアルDMS-5は、IQがあくまで参考値で、生活や社会での行動能力で、診断すべきであるとする。すなわち、平均から大きく離れたIQの値は、信頼できないということである。診断基準となる能力は、ひとりで食事できるか、ひとりで排泄できるか、ひとりで公共交通機関が利用できるか、ひとりで買い物ができるか、などである。
映画を見ていると、フォレストは、バスを利用でき、アイスクリームを路上で買って食べることができる。さらに、運動神経抜群で、アメフットの選手として大学にはいり、ベトナム戦争に兵士として参戦し、上官の命を救い、勲章を授与されるのである。彼は、DMS-5の基準では、知的能力障害でなく、単に「とろい」、「勉強ができない」ということになる。
映画の中で、フォレスト役のトム・ハンクスは、どもっているような話し方をするが、決して南部訛りではない。南部訛りは、ゆったりしたペースで歌うように話す。日本で良く聞く、強いアクセントの話し方は、北部訛りである。トム・ハンクスの演技はほめたものではないが、成功物語を期待している観客には、ステレオタイプ的な演技が心地よいのだろう。
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フォレストの永遠のマドンナ(ヒロイン)となるのが、ジェニーである。フォレストの最初のスクールバスでの登校時に、だれも相席させてくれないなかで、彼女だけが、隣に座らせてくれたのである。子どもたちにいじめられるフォレストに 彼女は よりそう。その彼女は、家では性的虐待を受けている。彼女が自宅に向かって石を投げるシーンが印象的である。そして、父親が逮捕され、彼女は親戚に引き取られる。
フォレストが、そのジェニーと再会するのは、フォレストが国会議事堂でジョンソン大統領から勲章を授与される日である。授与式の後、間違って、反戦集会に紛れ込んでしまう。そこで、反戦活動リーダの女になって、虐待されているジェニーを見つける。活動家たちがドラッグまみれのきたならしい無法者として描かれる。(この映画製作者は、権力に逆らう者がきらいなのかな。)
次に、フォレストが、ジェニーと再会するのは、母が死んだあと、実家にひとりで住んでいるときである。自殺しようとしたジェニーが、フォレストに会いに来たのである。一夜をともにした後、ジェニーは夜明け前に黙って去る。
最後に、フォレストが、ジェニーと再会するのは、彼女が死ぬ直前である。ジェニーは、あの夜、フォレストの子をみごもり、生み、フォレストと名づけ、ひとりで育てる。彼女は、死ぬ前に、その子を託すために、手紙でフォレストに呼び出したのである。フォレストは、自分の子を見て、頭が良いと喜ぶ。
ジェニーは、フォレストと結婚式を挙げた後、ほどなくして死ぬ。
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この映画は、人が、陽気で、お人好しで、愛国者で、能力がなくても、努力しなくても、悪知恵を働かせなくても、運が良ければ、金持ちになれる、という、おとぎ話である。
ジェニーは、なぜ、不幸に次々と襲われ、死なないといけないのか。反戦活動家が、なぜ、ろくでもない人たちとして、描かれるのか。それも、アメリカン・ドリームのおとぎ話であるからだ。

2年前に、放送大学で、発達心理学を道徳教育の効率化に利用しようと言っていた。これは怖いことだと私は思う。
発達心理学によれば、多くの子どもたちが言葉の奴隷になりやすい。考えるより、言われたとおりに、行動する子どもの特性を利用することが、怖いのである。
何が「善」で、何が「悪」かは、自明ではない。それなのに、学校の道徳教育は「善悪」を教えようとする。
「善悪」を教えるより、人の言うことを疑い、自分で考え、自分の気持ちに素直になるべきか、それとも人の意見を取り込むか、判断できるように、育てた方が良い。教育は子どもの自立を助けるということである。
権力を志向する者は自分が正しいと思っており、自分は誰かに命令されるのは嫌いなくせに、人に命令するのが好きだ。帝王学とは自分は何をやっても良い、暴君になっても良いという秘義を授けることである。
「善悪」が自明でないということは、権力者以外にとって、道徳教育で、言葉の奴隷になるだけでなく、命令大好きの権力者の奴隷になることだ。権力者は直接命令するだけでなく、忖度する側近者や部下にそれを代行させる。
小学校の道徳教科書に、いまだに、監督の指示に従わず、バンドしなかった選手を責める話が載っている。上からの指示に従わないことを「悪」とする考えが、子どものときから叩き込まれているから、いまだに、安倍晋三の逆らう者を「非国民」という、トンデモナイ人たちがいる。

考えるということは、記憶にしたがってだけ行動するのではなく、別の可能性を探すことだと思う。試行錯誤することだと思う。
私の外資系企業では、「考えよ」がモット―で、鉛筆やボールペンにも“Think!”と書かれていた。
企業が開発ラボに加えて研究所(リサーチラボ)をもつ理由は、alternative (選択肢)を確保することだ、と言っていた。
しかし、試行錯誤は永遠にグルグル回る可能性がある。したがって、考えるには、考え始めるスィッチと、考えるのを止めるスィッチとが必要である。
何か変だな、あるいは、どうしてだろう、と思うことが、考え始めるスィッチである。
これで良しと思ったら、疲れたと思ったら、スイッチを切る。
考えすぎると頭が疲労しておかしくなるかもしれない。世の中には簡単に解けない問題もある。フェルマーの最終定理は、フェルマーがその定理を思いついてから約400年後に初めて証明された。
数学ができない子どもに、うまく試行錯誤ができない子どもがいる。数学を手続きを覚えることのように思っている人たちがいる。残念ながら、中学や高校の数学教科書もそのように書かれている。
試行錯誤がなければ、考えていることにならない。考えないように、学校教育は組みたてられている。
本当は試行錯誤が良い方向にいっているかどうかの感覚が、数学に限らず、大事なのである。
良い方向にいっているかどうかの感覚をつかむには、良いデータを集めることである。確かな事実と思われることを集めることである。
もう一つ、ものを考える上で、「言葉で考えない」ことである。言葉はコミュニケーションのためにある。言葉で考え出すと、本当は真理に近づいていないのに、これで良しと、試行錯誤を止めてしまう。人は、言葉にだまされやすい。
また、自分の中にもう一人の自分を作ってコミュニケーションをし始めると、自己弁解を始めてしまう危険がある。だから、分厚い哲学書は危険である。著者が自分に酔っているだけで、中身は非常に薄っぺらい。
試行錯誤をうまくするためには、図や表も役に立つ。言葉は、単に、再び考え出すためのヒントを書き記すだけにする。
世の中はAI、AIというが、コンピューターと脳とは動作原理がまったく異なる。
コンピューターは 0か1かのビットが並んだ列で制御される。脳の神経細胞(ニューロン)は、興奮を伝えるだけで、0というものがない。
数学が好きで、物理学科で学び、コンピューターの会社で働いたデジタル人間の私にとって、生体系の制御は、長らく、とても不思議なものだった。
L. R. スクワイアとE. R. カンデルの『記憶のしくみ』(ブルーバックス)を読んでも、謎が深まるばかりだった。
最近、あやつり人形を考えることで、ようやく、生体系の制御システムに納得がいった。あやつり人形の糸を引っ張れば、糸の結ばれている手、または、足が上がる。
糸が運動神経細胞である。
人間や動物の各筋肉にそれぞれ別の運動神経細胞が届いている。運動神経細胞の軸索の終端に電気パルスがいけば、化学物質アセチルコリンが放出され、筋肉が収縮する。
生体系では、制御に0を送る必要がないのだ。
関節を動かすのにいくつもの筋肉が骨についており、それぞれに、異なる運動神経細胞が届いているから、反対向きに動かしたければ、反対側の筋肉に届く運動神経細胞に信号を送れば良い。
糸を引っ張るのが感覚神経細胞だ。感覚神経細胞と運動神経細胞の結びつきが変わらなければ、生物は学習ができない。記憶ができないことになる。
しかし、操り人形の糸が、もし絡まったらどうなるだろうか。1つの糸を引っ張れば、手と足の両方が上がるかもしれない。
感覚神経細胞と運動神経細胞とを結びつける介在神経細胞が狭い領域に詰め込まれていれば、絡んだりして、同じ外界の刺激に対して異なる反応をするかもしれない。
実際、スペインの神経解剖学者ラモン・イ・カハールが、神経細胞を感覚細胞と運動神経細胞と介在神経細胞とにわけ、そのつながり(神経回路)が、外界に対する反応を産むとの仮説を提案し、111年前、1906年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
その60年後、エリック・R・カンデルは、海に住む軟体動物のアメフラシを使い、学習によって介在神経細胞のつけかえ(シナプス結合の可塑性)が起きることをはじめて実証した。アメフラシの神経細胞は大きくて、1 mmに達するモノもあり、観察しやすかったからである。
学習とは記憶したということである。記憶は神経細胞間のつけかえで起きるのである。私はつい最近までカンデルの業績を知らなかった。
その頃、私の物理学科の友人たちは、イカの巨大神経の軸索ばかりを研究していた。物理屋にはシステムという考え方が欠落していた。
生体系の記憶とは、神経細胞がおりなす興奮の伝達回路が変わることである。
脊髄動物の場合は、アメフラシより、はるかに多数の神経細胞が集まって脳をなしている。
脳科学総合研究センター編の『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』 (ブルーバックス)などを読むと、神経細胞と神経細胞の興奮伝達効率は、変わるだけでなく、確率的であることがわかってきた。さらに、モノアミン作動性神経細胞は、他の神経細胞に同期信号を送っていることがわかってきた。
脳の情報統合の問題も、これらの事実で理解できそうである。私の学生時代とくらべ、人間の脳の生物的学的理解もずいぶん進んだと思う。