猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

うつや、心の不調への向精神薬服用の問題

2019-06-16 21:19:35 | こころの病(やまい)


10日前の朝日新聞に、「抗うつ薬は、承認された用量の範囲内の少なめの量を飲むのが最も効果的とする研究結果を、日英などの国際チームがまとめた。結果をもとに研究者は、少ない量から始めて副作用に注意しながら増やすことを勧める学会の治療指針の見直しが必要と指摘する」という記事がのった。

新世代の抗うつ薬は、副作用を避けるために、もともと、日数をかけて、ゆっくりと服薬の効果がでるように設計されているから、「少ない量から始めて副作用に注意しながら増やすこと」は、全く意味がなく、逆に、過剰に摂取する危険がある。だから、最初から所定の用量を服用すべきだという指摘は、納得いくものである。

これまでも、朝日新聞に大事な向精神薬の記事があったが、人は忘れやすいので、もう一度、ここに記す。

約3年前、朝日新聞に、記事『子供のうつ病に診療指針』がのった。記事はまず、子どものうつ病の特徴を指摘する。

「うつ病は児童・思春期の間に5%がなる」、「大人との違いとして抑うつ気分のかわりに怒りやすくなる場合がある」。

次に、抗うつ薬の現状を述べる。

「現時点では、国内での臨床研究で安全性や有効性が示された子ども用の抗うつ薬は存在しないと(指針が)明記」、「大人のうつ病に効果がある薬の中には、子どもには効果がなく、かえって副作用が出てしまうものがあることに注意しなければならない」。

そして、服薬以外の治療も必要だ、と述べる。

「家庭内のいさかいや学校でのいじめが影響していることが少なくなく、家族や学校と連携して治療を進めることが欠かせない」、「(夫婦)けんかは子どものいない時にするよう両親に頼んだり、いじめへの対応を教師に求めたりと、『環境調整』を行うことが多い」。

記事は、子どもへの安易な抗うつ薬の使用を戒めるものだった。

NPOで私の担当している子どもは、中学2年から抗うつ薬を服用しており、高校3年になって減薬を始めた。ちょうど両親の離婚と重なり、母とともに実家に引っ越したこともあり、離脱症状を起こし、減薬に失敗した。

そして、その失敗の後、気持ちが落ち込むと、自分から、抗うつ薬の増量を求めるようになり、医師がそれに応じている。大丈夫なのか、と心配になる。

また、記事『子供のうつ病に診療指針』の2か月後に、朝日新聞は、「知的能力障害」のある子どもの8人に1人に抗精神病薬が与えられていることが、健康保険組合の診療明細書(レセプト)の分析からわかった、と報じていた。

健康保険組合の診療明細書の分析から、わかったということは、向精神薬が保険対象外の用途に使われていたから ではないか、と思う。もし、診断名をいつわれば、対象外に使われても発覚しないから、実態は、もっと多くの「知的能力障害」の子どもたちに、効用が認められていない用途に、薬が与えられていることになる。

実際、私のNPOにきている「知的能力障害」や「発達障害」の子どもたちも、パニックをおさえるためとして、向精神薬を服用しているのがめずらしくない。そして、これは、親の要望によることが多い。

メディアは、定期的に、薬の危険性を親たちに啓蒙していく必要がある。

誰かに喜びを与える喜び、うつからの脱出手段、ニーチェ

2019-06-15 22:43:17 | こころ

フリードリヒ・ニーチェが、人間の情動や欲望を肯定したことは、評価できるが、弱い者を嫌い、弱い者や、弱い者に寄り添う者を「家畜の群れ(Heerdenthier)」と ののしるのには、ついていけない。

『この人を見よ』(光文社古典新訳文庫)を読むと、人生のある時期、彼自身、かなりのうつ状態に落ち込んでいたことがわかる。自分の著作が評価されず、自身の容姿も醜く、自分を、地表を這う不快な虫のように思い込んでいたのだろう。

そして、うつ状態から脱出するために、自分が高貴だと暗示をかけ、弱い者や、弱い者に寄り添う者を攻撃することで、自己を肯定しようとしていたのだろう。

『道徳の系譜学』(光文社古典新訳文庫)の第三論文「禁欲の意味するもの」に、ニーチェが、うつ状態からの脱出手段として、他の人に「喜びを与えるという喜び」があると書く。

なんだ、ニーチェは、そのことを知っていたのか。

しかし、ニーチェが、あらゆる慈善、奉仕、援助には「ごくわずかな優越感」が伴うと書き添える。さらに、「家畜の群れ」を形成しようとしているのだ、と言う。
他の人に「喜びを与えるという喜び」を、「優越感」とか、「群れている」とか、そんなに軽蔑する必要がない。弱い者や、弱い者に寄り添う者を攻撃することより、ずっと、よい脱出手段だと思う。

ニーチェが、自分が5歳のとき死んだ牧師の父親に強い劣等感をもっており、必要以上に、「隣人愛」を下賤としているように思える。他人を攻撃するより、「隣人愛」はずっと高貴である。

ニーチェの欠陥は、支配と服従という人間関係を、社会から排除しようという、意志を持てないことだ。情動や欲望を肯定するくせに、無政府主義を何か恐ろしい野獣かのように思い込んでいる。

なぜ働くのか、働くとはどういうことなのか

2019-06-14 22:56:00 | 働くこと、生きるということ
 
大人になる直前の子供にとって、自分が働かなければならない、と思うことが、大きなストレスになっている。
 
多くの子どもたちは、働くとは、賃金をもらって、誰か他人に命令されるまま、我慢して、働くことだと思っているからだ。すなわち、働くということは、賃金労働者になることと思いこんでいる。
 
起業すれば良いと私が言っても、子どもたちが元気にならない。農業では暮らせないとか、商店街がシャッター街になっているとか、起業するには資本がいるとかの現実を、子どもたちが見聞きしている。そればかりか、大きな賃金格差が社会にあり、また、ブラック企業が存在すると、聞き知っている。
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スズメや鳩を見ていると、せっせと草むらで小さな虫を探してついばんでいる。恒温動物たる小鳥にとって、常に小さな虫を探してついばむことが働くことであり、生きることである。しかし、それがストレスになって、スズメや鳩が、悩むとか、引きこもるとか、聞いたことがない。
 
働くことが、生きることの喜びとなっている。それは、自分のために働いているという感覚があるからだ。
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日本国憲法第27条には「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」とある。
 
「勤労の権利」とは、「勤労」が生きる喜びであるから、誰も奪っていけないという意味であろうか。
 
第27条には、次の項がついている。
「2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
 3 児童は、これを酷使してはならない。」
 
これらは、「勤労」が「賃金労働」であると想定している。「労働」という言葉に左翼の香りがあるから、単に、それを避けただけでないか。
 
そう考えると、「勤労」の「義務」とは、いったい何を意味するのか、根本的に日本国憲法を疑わざるを得ない。
 
「賃金労働」というものを根本からなくし、自分自身のために働くという社会に変革できないかと私は思う。企業は、株主のものではなく、全従業員のものにすべきではないか。

聖書の誤訳、ノアの箱舟の後書き

2019-06-13 21:34:16 | 誤訳の聖書


旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語は、メソポタミアに古くからある伝承、「大洪水と箱舟」を引き継いでいる。最も古い伝承は『シュメル語の洪水物語』であろう。

ところが、旧約聖書の書記(編者)は、余計な前書きと後書きをその前後に加えてしまった。

旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語は次で始まる。

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」『創世記』6章5-6節 新共同訳

「ノアの箱舟」の物語は次で終わる。

「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度(たび)したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。』」『創世記』8章20-21節 新共同訳

ここで、「主」とは、ヘブライ語聖書の神様ヤハウェ(יהוה)の日本語訳である。

何となく、居心地の悪い結末であるが、神様ヤハウェは、これからは、人間たちを大洪水で皆殺しにしないと約束しているのである。

この居心地の悪さは、3つの要因からなる。

第1は、神様ヤハウェは、贈り物で心を変えることである。『創世記』を含むモーセの五書は、ユダヤの祭司が紀元前4世紀から5世紀に書き上げたものだから、そんなものだ。『レビ記』は、神様にわいろを贈りなさい、という祭司の言葉で満ち溢れている。

第2は、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」という部分だ。これは、日本語訳の問題で、「悪い(רע)」とは「気持ち悪い」、すなわち「キモイ」という意味である。第1と同じく、祭司が神様ヤハウェの気持ちをそう邪推しただけだ。

第3は、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」という部分だ。これは、否定詞を先頭にもつ複文の訳にありがちな誤りである。

口語訳(1954年)、新共同訳(1987年)、聖書協会共同訳(2018年)がそろって、同じ誤りを犯しているので、この構文解釈の誤りを丁寧に説明したい。

ヘブライ語聖書は、右から左に向かって書くのだが、ここでは、現在の日本語の表記のように、構文を左から右に書こう。ここの文は、次のような構造になっている。

否定詞 文A 接続詞 文B

文A =人に対して(人が故に)大地を呪う
文B =人が心に思うことは、幼いときから悪い(キモイ)

否定詞=לא־אסף(ローオシプ、意味は「二度としない、not again」)
接続詞=כי(キー、意味は、「…なので、because」)

New International Versionの英語聖書では、この構文を、複文に否定詞がついたと解釈する。すなわち、

否定詞 {文A 接続詞 文B}

と解釈する。私も、“כי”の多くの用例から、これが普通の解釈と思う。文Bの真偽に関わらず、文A「人が故に大地を呪う」ことは二度とすまい、という神様の決意なのである。

ところが、日本語聖書では、次のように構文を解釈してしまった。

{否定詞 文A} 接続詞 {文B}

だから、変な訳になったのだ。このような誤訳の原因は、日本の英語教育で複文を切って訳すように指導していることと、文Bを本当だと思う聖職者がいるからだと思う。

私は、NPOで「発達障害」児の相手をしているが、自分の子どもを信じない母親に出くわすと、本当に困る。同じように、文Bを真理とし、人間は悪だとする聖職者には、本当に困る。

構文を複文の否定と解釈すると、日本語訳はつぎのようになる。

「人の心の思いは幼いときからキモイとしても、人が故に大地に害をなすことは、二度とすまい」

実際、New International Versionでは、接続詞を“even though”と訳して、複文の否定だということを明確にしている。

アメリカ憲法と自由と赤狩り、映画『マジェスティック』

2019-06-12 22:38:28 | 映画のなかの思想


『マジェスティック(The Majestic)』は、まったくヒットしなかった2001年公開のアメリカ映画である。製作費7200万ドルで、全世界の興行収入が3700万ドルであった。

この映画は、とても不都合な事実、アメリカ人の忘れたい過去を扱っている。戦争で自分の息子を失った親世代、そして、赤狩りで沈黙を強いられる若者世代の物語だ。

「赤狩り」は、英語で“red scare”と言い、「かかし」の“scare crow”の語順が ちがう。前者は「赤を恐れる」ことで、後者は「カラスを脅す」ことである。

「赤」とは共産主義者を指し、アメリカ人にとって、“red scare”とは、共産主義者が怖いという社会的パニックをいう。具体的には、魔女狩りのように、アメリカ議会の委員会が、次々と人に共産党員の疑いをかけ、公聴会で自分が共産主義者である告白させ、他の共産党員を密告させるものである。

複雑な映画のプロットを簡単に説明すると次のようになる。
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1951年、酔った青年が海岸線にそって車を運転し、橋から落ちて、記憶を失う。助けられ、青年は田舎町に連れていかれる。青年の顔が、第2次世界大戦で行方不明になった町の英雄ルークにそっくりだった。大戦で息子たちや恋人を失って元気をなくしていた田舎町の人たちは、行方不明のルークが戻ってきた、と喜ぶ。

青年は、自分がルークだと受け入れ、町のみんなや、ルークの恋人アデルや、ルークの父ハリーのために、尽くす。
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青年は、閉じられていたハリーの映画館、マジェスティックを再建する。再建された映画館の最初の上映の日に、ハリーが倒れる。いっぽう、青年は、上映されている映画のポスターを見て、その脚本を自分が書いたこと思い出し、ルークでないと気づく。

しかし、青年は、死にゆくハリーに息子ルークとして演じる。

ハリーの葬式の後、ルークの恋人アデルに自分はルークでないと告白する。そして、赤狩りの公聴会に被疑者として出席するために、町を去る。このとき、法律の勉強していたアデルから、ポケット版憲法書とルークの手紙、勲章を、青年は受け取る。
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赤狩りの公聴会で、共産党員だと告白し、ほかの党員を密告するよう、強要される。青年は、突然、嘘の証言をしてはいけない、と思う。ポケット版の憲法書とルークの勲章をかざし、アメリカは 憲法の のべるように 自由の国で、戦争で自由のために死んでいった若者たちのためにも、嘘の証言はできないと叫ぶ。

この公聴会は全国に放送されていた。騒ぎを起こさないため、公聴会はすぐ終了され、青年は無罪放免となった。

青年は映画業界に戻らず、アデルの住む田舎町に戻る。そこには、アデルだけでなく、放送を聞いていた町のみんなが出迎えに来てくれた。
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思想信条の自由、言論の自由、団結の自由を否定することなんて、あってはならない。

この映画は、ヒットするに難しい話題を扱っている。しかし、忘れたい過去を映画化することは、忘れないために必要なことである。

無理にコメディ映画とするのではなく、困難な時代に、普通の青年が、勇気をふるって良心にもとづく小さな抵抗をするという、地味でメロドラマ的な映画に徹した方が良かったと思う。