猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

出口治明の朝日新聞『イノベーション立国論』は お粗末

2019-09-24 21:06:09 | 社会時評


9月18日の朝日新聞オピニオン&フォーラム、出口治明の『イノベーション立国論』がひどい。自分の立命館アジア太平洋大学(APU)の宣伝をやっているだけで、内容がない。

出口治明のインタビューはつぎで始まる。
「経済学者のヨーゼフ・シュンペーターによると、イノベーションとは既存知の組み合わせです。知と知の間の距離が遠いほど、面白いアイデアが生まれる。現在では『ダイバーシティ』と『高学歴』が、新しい技術革新が起きる条件です」

これでは「イノベーション」=「技術革新」のように聞こえる。

じつは、シュンペーターの関心は、社会主義者と対決し、資本家、経営者を擁護することにあった。別に、技術革新に興味あるわけではない。かれは、資本家、経営者の役割(function)を分析し、企業家(entrepreneur)という機能を見出した。最近、「企業家」に「起業家」の字を当てるが、別に会社を起こすことを言うのではなく、「新しいことをする人」をいう。社会の物質的発展に、企業家が必要であるから、高額の給料をもらうのだ、というのが、シュンペーターの理論の核心である。

「企業家」は「発明家」と異なり、自分が新しい科学的技術的知識を生むわけでないので、「既存知の組み合わせ」で「新しいこと」をする。この「新しいこと」をシュンペーターは「革新(innovation)」と呼んだ。

どうも、出口はシュンペーターの論文を読んだことがないのだろう。

日本語のWikipediaにも、戦後、“innovation”を「技術革新」と訳したのは間違いで、現在では、誤解を防ぐために「経営革新」と訳すことが多くなったとある。

出口は「日本生産性本部の役員に聞いたのですが」と話す。「生産性本部」とは生産管理技術に関する知識の普及を有料で行っているところで、イノベーションとは無関係である。

出口の「『ダイバーシティ』と『高学歴』が、新しい技術革新が起きる条件」というのがまた意味不明である。ここでは、「技術革新」を「イノベーション」という意味で使っていないのではないか。「技術革新」を単純に「新技術開発」の意味で考えているのではないか。そうでないと、なぜ、「高学歴」が条件になるかが理解できない。

出口は「高学歴」で大学院のことを意味しているようだが、ビジネスで「新しいこと」をするのに、大学や大学院に行く必要はない。ビジネスで「新しいこと」をするには、「思い込み」から自由で、「戦略的思考」ができれば良い。そうであれば、新しいアイデアが浮かび、それを具現化できる。

出口は、労働環境に言及するが、これは労働者管理(management of human resources)の技術を論じているだけだ。すなわち、これは、大学院のMBAの教科内容で、シュンペーターに言わせば経営(management)の問題でイノベーションと無関係である。

しかも、優秀な人材は労働環境の悪い企業にこないという自明なことを言っているだけだ。

出口は「日本の企業が面接で見ているのは、率直で我慢強く、協調性があって言うことを聞くかどうかです、これは製造業では必要な人材です。でもこういう人間をいくら集めても、新しいアイデアは出ないし、新しい産業はうまれません」という。

ここで、「新しい産業」とはじめて「イノベーション」らしきことをいう。しかし、製造業ではイノベーションはいらないのか。そんなことはない。わたしは、中国のファーウェイ、韓国のサムスン電子を高く評価する。日本においても製造業は大事な産業である。

私は外資系で働いてきたが、日本のどんな産業であれ、「協調性があって言うことを聞くかどうかです」では、まずいと思う。労働者は奴隷ではない。労働者のもっている「創造性」に、経営者は敬意をはらうべきである。

しかし、「率直で我慢強い」は素晴らしい人間の資質ではないか。私は、発達障害と言われているなかで、コミュニケーション症とか自閉スペクトル症の人を企業は積極的に雇ったほうが良いと思っている。彼らは、我慢強く、独創的な仕事をする。

企業にとって困るのは、プレゼンテーションだけが うまい人が、研究部門や開発部門や製造部門にはいってくることである。ウソを見破る上司がいないと、会社倒産の危機が生じる。もちろん、営業部門であれば、良い資質となるが。

また、人間の創造性は、学校教育がいかに個人の自由を尊重をするかに依存している。出口は、日本の学校教育を批判的に検討せずに、学生が「大学で勉強しない」と批判している。出口の大学の学生がボロイのか、授業の内容に問題があるのか、学生が貧困でアルバイトに負われているのか、小中高の詰め込み教育の弊害がでたのか、などを検討しないといけない。

いずれにしても、出口の話はお粗末で、ただただペテン師の能力で学長まで上り詰めたと思える。朝日新聞もこんなバカとつきあっていいことはない。

【追記】
朝日新聞の記事を読み直すと、インタビュア嘉幡久敬は、「世は『イノベーション』ばやりだ。米IT企業の成功にならえと、国も技術革新を起こそうと躍起になっている」と冒頭に書いている。「イノベーション」を「技術革新」としているのは、嘉幡記者自身の無知からきている。

じつは、「イノベーション」「ダイバーシティ」「シュンペーター」は、私は外資系にいて30年前に頻繁に聞いた言葉である。IBMは1990年に赤字決算になり、CEO(最高経営責任者)が辞任し、金融資本の株主が経営コンサルタント上がりのルイス・ガースナーをCEOにつけた。これらの言葉はコンサルタントのものである。なぜ、いまごろ、日本でこのような言葉がはやるのか。日本が行き詰った右翼国家になりさがったことと関係があるのではないか。しかも、言葉の使い方がおかしい。

政治や国が経済に口出したとき、ろくなことが起こらない。口の上手い政治家が大衆を操るために、経済政策を利用するからだ。じっさい、アベノミクスが日本の経済をダメにしている。

日本人の思想を求めて山川均の評伝を読む

2019-09-23 23:21:01 | 民主主義、共産主義、社会主義

日本人はいつから思想らしきものをもったのか。幕末の吉田松陰には思想らしきものはまったくない。彼はバカとしかいいようがない。暴力をふるう乱暴者、武士が、人民支配の儒学の知識をもとに、「尊王攘夷」に酔いしれているだけだ。

鎌倉時代に新仏教(仏道)運動が起きたから、そのときには思想らしきものが日本に一度起きたのであろう。残念ながら、徳川幕府の大弾圧で、思想として発展せず、途切れてしまう。親鸞、日蓮の思想、禅の思想も、明治時代以降の、西洋の思想に対抗する日本思想の再発見の流れのなかで、見出されたもので、断絶がある。

そういうことで、2012年NHK ETV特集『日本人は何を考えてきたのか』は、明治時代から始まる。すなわち、現在の私たちの思想は、明治以降、西洋の思想に触れることで、はぐくまれたとするわけだ。西洋思想を吸収する、あるいは、西洋思想に反発することで、日本人は自分の思想を築いてきたのだ。

そういう私は、じつは、日本の思想史にうとく、このNHK ETV特集をハー、へーと見ていた。

最近、ETV特集で覚えた名前の山川均の評伝がミネルヴァ書房から7月に出版された。読んでみて、明治後半から大正時代の日本人は、もう私たちと変わらぬ思想をもっていたこと、ずっと過酷な政治的環境に生きていたことに、自分の認識を新たにした。それは米原謙の『山川均 マルキシズム臭くないマルキストに』(ミネルヴァ日本評伝選)である。

山川均は1880年(明治13年)に倉敷で生まれた。同志社中学校に進学し、そこで、学内の争いに思うことがあって、1897年に中退している。山川の最初の西洋思想の受容はキリスト教なのだ。

米原謙は若いときの山川の軽はずみな性格をうまく描いている。若者は背伸びをするから、そんなものだろう。同志社中学校の中退もそうだが、満20歳で雑誌『青年の福音』の記事で不敬罪を問われ、3年近く牢獄にはいる。その内容は、皇太子の嘉仁(大正天皇)と九条節子との結婚式を、キリスト教徒が世俗に迎合して歓迎している、と皮肉ったものである。

米原はこれを「キリスト教的な人道主義とドロップ・アウトの反抗精神が入り混じった行為」と言い切る。私は「ドロップ・アウトの」がよけいだと思う。せめて「若者の」にしてほしかった。「反抗精神」は人類が新しい生き方を見出す原動力として必要なのだ。

とにかく、この時代は、帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」のもと、結婚式を歓迎するキリスト教徒を茶化すだけで牢獄に入れられたのだ。ひどい話だ。これ以降、山川は、ずっと、警察の監視対象となる。その「おかげ」というか、米原は、山川の評伝を書くのに、特高の資料を利用できている。

さて、この時期、山川は、「熱烈なクリスチャンを自負」しながら、社会主義研究会にあこがれていたと米原はいう。社会主義研究会の発足時のメンバー11人のうち、幸徳秋水を除けば、全員がキリスト教徒であった。日本の社会主義は、キリスト教的人道主義から始まったと言えるだろう。

山川の生活を陰でサポートしたのは、彼の姉の夫、林源次郎である。この人も面白い人で、薬局経営とキリスト教会や慈善活動とを同時に進めていた。山川は、出獄した後、岡山に暮らし、マルクスの資本論を英訳で読み始める。そのころ、マルクスの名前を知っていても、ちゃんと資本論を読んだ人が日本にいなかったという。私は未だに読んでいない。私は厚い本を読めない。

1906年に日本社会党の結党が合法化され、山川は入党した。同じ年の12月に上京し、『平民新聞』の編集部員になる。堺利彦によれば、山川は雑務をいとわずコツコツと働いたという。軽はずみだが生真面目なのだ。

1908年に、山川は、堺とともに、また逮捕される。定例の社会主義金曜講演会を警官が中止、集会解散を命じたが、反発した堺は2階から身を乗り出し、外に向かって演説を始めた。この件で、堺、山川、大杉栄ら6名が、治安警察法違反で逮捕された。禁錮1月半である。

その同じ年に、電車賃上げ反対運動と関連し、一部の青年活動が赤旗をもって街頭に出て、山川は、警官との衝突を止めにはいり再逮捕される。禁錮2年である。

しかし、山川は牢獄にいたおかげで、1910年の幸徳秋水の大逆事件に連座しなかった。大逆事件で12人が死刑になっている。

山川は、大逆事件をへて、発言が慎重になり、著作を通して思想を述べるようになる。と同時に、米原の書いている内容も難しくなる。

山川はマルクス主義の第一人者と評されるようになるが、一方で、直接行動主義(暴力革命)でいくか、議会主義でいくかの問題、プロレタリア独裁でいくか、対立する政党にも自由を与えるかの問題、前衛党とは何かの問題に直面する。山川は共産党を結成するが、いったん解党し、労農派を結成することになる。

山川は、1917年から、吉野作造の民本主義を批判しはじめる。この批判は、民本主義が主権者は誰かを曖昧にしたままで、民衆のための政治をする点をついたものである。

それにしても、戦前の大日本帝国の時代は、政府が暴力的で、思想の自由、言論の自由、集会の自由を踏みにじっていたのにびっくりする。そんな戦前を称賛する安倍晋三はトンデモナイ男だ。

永渕健一裁判長の東電無罪判決は安全性より経済性・国策を優先

2019-09-22 19:58:01 | 原発を考える


福島第1原発事故をめぐり、「業務上過失致死傷罪」で強制起訴された東京電力旧経営陣3人を、9月19日、東京地裁は無罪とした。

刑法第211条(業務上過失致死傷等)
「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。」

今回、検察官役の指定弁護士はその中の最高の刑罰「5年間の禁錮」を求刑した。

じつは、この「業務過失致死傷罪」というのは、もともと、刑法のなかでも、非常に軽い罪状である。これまで、業務用トラックの人身事故やバスや鉄道の事故などで適用される罪状であり、運転手やその雇用者への罰則がゆるいと、交通事故には、もっと重い罰則の法律が制定された。

そんな軽い罪でも、旧経営陣の元会長、勝俣恒久(79)、元副社長の武黒一郎(73)、武藤栄(69)の3被告を無罪にした、東京地裁の裁判長の永渕健一の判決はおかしいと思わざるを得ない。

刑法211条は、「業務上必要な注意を怠り」人を死傷にいたらした罪を規定しており、不注意が人の死傷を招いたことが要件になる。ところが、判決文の冒頭で、永渕は、業務過失致死傷罪で
「結果回避義務を課す前提として、予見可能性があったと認められることが必要である」
と言う。

すなわち、不注意があったか否か、原発事故を回避できたか否か、ではなく、「予見可能性」という理由で無罪にしたかのような書き出しである。

判決文を読むと、旧経営陣の3人は、部下から、14メートルの津波が来る、最大で15.7メートルの津波がくると報告を受け、対策を求められている。ここで、経済性を優先させ、対策を必要なしとした、旧経営陣は、あきらかに、「業務上必要な注意を怠った」のである。津波による原発の危険性を知ることは、原発を所有する企業の経営者に「業務上必要な注意」そのものである。

また、判決文を読むと、
「検察官役の指定弁護士は今回の結果を回避するために必要な措置として、(1)津波が敷地に上がるのを未然に防ぐ対策 (2)津波が上がっても建屋内への浸水を防ぐ対策 (3)建屋内に津波が浸入しても、重要な機器がある部屋への浸入を防ぐ対策 (4)原子炉への注水や冷却のための代替機器を浸水の恐れがない高台に準備する対策――をあらかじめ取れば事故は避けられたと主張し、全てを講じるまでは運転を停止するよう主張した」
とある。

(1)から(4)のいずれかが とられていれば、原発事故が回避できたのである。じっさい、同じ津波を受けた宮城県の女川原発、福島県の福島第2原発では事故が防げたのである。

ところが、判決文で、永渕は
「10メートルを上回る高さの津波が来る可能性に関する情報に3人が接するのは、いずれも早くて、武藤が2008年6月10日、武黒が、武藤から報告を受けた同年8月上旬、勝俣が2009年2月11日だった。仮にこの時期に(1)~(4)の全てに着手していたとしても、事故前までに完了できたか、証拠上明らかではない。指定弁護士も、この時期に(1)~(4)に着手すれば、措置を完了でき、事故は回避できたとは主張していない。
 そうすると、結局、事故を回避するには、原発の運転を停止するほかなかったということになる」
と言う。

これは、詭弁である。

通常は、「注意を怠った」のではなく「努力したが間に合わなかった」と、無罪を主張する。
ところが、判決文では、間に合わないから「原発の運転を停止するほかなかった」と永渕は言い切る。

じっさいには、(2)から(4)は短期間に低コストでできたはずである。せめて非常電源のディーゼル発電機を高台に置けば良かったのである。

永渕の悪質なところは、検察官役の指定弁護士が(1)から(4)の「全てを講じるまでは運転を停止するよう主張した」ことを逆手にとって「間に合わない」と言っていることだ。そして、彼はさらに言う。

「しかし、東電は電気事業法により電力の供給義務を負っている。現代社会における電力は、社会生活や経済活動を支えるライフラインの一つで、福島第一原発はその一部を構成し、その運転には小さくない社会的な有用性が認められる。
 その運転を停止することは、ライフライン、ひいては地域社会にも一定の影響を与えることも考慮すべきだ。運転停止がどのような負担を伴うものかも考慮されるべきだ。」

これでは、原発が危険でも、国家が必要としているから、止めてはいけない、となる。

じっさいには、2014年に日本中の原発を全部止めたが、何の問題も生じなかった。また、原発を止める以外の回避行動もとれたのである。

永渕は、さらに、予見可能性を否定するために、津波そのものが予見できなかったとする。第1原発の防波堤は10メートルの高さなので、永渕は10メートル以上の津波が予見できたかを基準にとる。その上で、最高15.7メートル、14メートルの津波の計算値の下になった、日本政府の長期地震予想「三陸沖から房総沖まで津波地震が起きる可能性」、「今後30年間にマグニチュード8.2の地震の可能性20パーセント」を信頼できないと永渕が言う。じっさいにマグニチュード9.0の大地震が起きた。

これには、9月21日のTBS報道特集で、元原子力規制委員会委員長代理で東京大学地震研究所教授の島﨑邦彦が怒っていた。根拠がないものを、地震予知連絡会が日本政府の長期地震予想として発表することはない。東電の武藤が勝手に信頼できないとして、東電と親密な土木学会に再評価を求めるとは、真実を求めているのではなく、自分の都合の良い「真実」を捏造する行為である。

永渕は、予見可能性について、
「3人に10メートルを超える津波の予見可能性がおよそなかったとは言いがたい。しかし、武藤と武黒は長期評価の見解それ自体に信頼性がないと認識しており、勝俣は長期評価の内容も認識していなかった」
と言う。これは予見可能性というより、3人の心理状態への言及であり、まさに「業務上必要な注意を怠った」と言える。

ところが、判決の結論で、予見可能性も必要ではない、と永渕は言う。

「地震発生前までの時点では、法令上の規制や国の指針、審査基準のあり方は、絶対的安全性の確保までを前提とはしていなかった。3人は東電の取締役などの立場にあったが、予見可能性の有無にかかわらず当然に刑事責任を負うということにはならない」

として、東電の旧経営陣を無罪にした。

永渕は、単に無罪にしただけでなく、安全性よりも経済性を、安全性よりも国家の政策を優先させる悪しき判例を作った。これは非難に値する。「業務上過失致死傷罪」そのものの否定になる。

「学問の自由」は贅沢か、世界レベルで大学が崩壊

2019-09-21 20:16:43 | 自由を考える

ネットでたまたま見つけた座談会『世界レベルで「大学が崩壊している」根本原因』が面白い。2018年9月7日の東洋経済ONLINEである。

朝日新聞では、これまで、理系・文系という観点から、「大学で文系が軽く扱われている」という記事が毎年ポツンとあったが、そんな問題ではないんだ。大学全体が世界レベルで崩壊しているんだ。大学全体が真理を探究する場でなくなっているんだ。

理系・文系の問題ではないというのは、ノーベル生理学・医学賞、化学賞、物理学賞をもらった日本人のほとんどが、受賞会見で、基礎研究を軽んじていると日本政府を批判していることからわかる。

いっぽう、この座談会についてのコメントを読むと、何をわがままなことを言っているのか、という否定的な雰囲気である。コメントにがっかりだ。

私は、真理を探究する場がなくなるとは、トンデモないことだと思う。
「大学が実利と効率という現世的価値への奉仕」とは、「若者をよく働く奴隷として訓練する」ことではないか。

座談会に反発するコメントは、大学が「国家の庇護を受けつつ国家の干渉を受けない」というのがおかしいと思っているからのようだ。コメントした人からは、自分が「真理を探究したい」「奴隷でありたくない」という願望が消え失せているようだ。まさに、世界的レベルで、思考の保守化だ。

たしかに、「学問の自由」や「リベラル・アーツ」は、他の自由、「表現の自由」「信教の自由」「職業の自由」「居住地の自由」などと同じく、近代にブルジョアと貴族との共闘によって生まれたものだ。だから、何か お高くとまっている と感じる人もいるかもしれない。

しかし、現在の民主主義の世界では、みんなが、その「自由」を楽しむことができるのである。国家の主権者は日本国憲法では国民である。だから、大学が「国民の庇護を受けつつ国民の干渉を受けない」というのは、当然である。

大学はみんなに開かれているのだ。みんなが、学問をするための大学をサポートする。しかし、多様な考え方を尊重し、真理の探究の仕方にあれこれと干渉しない。これが、「国民の庇護を受けつつ国民の干渉を受けない」ということだ。

国民が「学問の自由」を お高くとまっている と思うのは、大学入学者を学力で選抜するからだと思う。入りたい者を、すべて受けいれるようにすればよい。ただし、大学が、入って欲しい人には授業料を無料または安くし、そうでない人から実費をもらえばよい。

国立大学が希望者を全員受けいれるのは、「国立」ということから当然のことだ。憲法の「教育を受ける権利」だ。

卒業証も、授業に参加したという証明証としてどんどん出せばよい。ただし、成績だけは、本人のために、いままで通り客観的に評価すればよい。

そうすれば、学歴主義もなくなるだろう。また、大学教員の数も増やせるだろう。怪しげな公共事業より、ずっと経済効果があるだろう。
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コメントを読むと、座談会に出てきた言葉「大学とは天才を飼っておく場所」に怒っていた人もいた。きっと、怒っていた人は自分は頭が悪いと思い込んでいるのだろう。そういう人は、誰でもが天才になれる、ということを忘れている。

天才になるには、何ごとかを究めるに努力することと、これまでの常識にとらわれずに考えることだ。もちろん、環境もいる。最新の研究を知る環境がいる。

天才と言われたアルベルト・アインシュタインは、脳の容量は小さかった。また、ユダヤ人だったがゆえに、大学での職がなかった。しかし、ベルンのスイス特許局に友人の口利きで就職でき、そこで、最新のジャーナル(学術雑誌)を読むことができた。

みんなが天才になれるとしても、せっかく大学に入っても、大学の職にありつけるとは限らない。私もノーベル賞を取るつもりでいたが、大学の職を得られず、ノーベル賞をとらないまま71歳になった。

日本国憲法の第23条に「学問の自由は、これを保障する」とある。

同じく、第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。○2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とある。

これからは、「学問の自由」は、「健康で文化的な最低限度の生活」と合わせて、国民のだれもが、大学に職がなくても、「真理を探究できる自由」とすべきである。休みにパチンコでなく、研究をしたいと思う人が意外とたくさんいると思う。そのための環境を整えて欲しい。

専門書や洋書や学術雑誌が図書館で読めるようにしてほしい。そのためには、全国の大学図書館を学生や職員以外に、しかも、休日に開放して欲しい。また、ネットで、専門書や洋書や学術雑誌が読めるようにして欲しい。これも、国民の知的レベルを向上させ、経済効果を生むだろう。

格差がないと人は働かないのか、コーエンの『大格差』

2019-09-20 21:34:49 | 働くこと、生きるということ

現在の「経済格差」が不必要に大きすぎる、と私はつねづね思っている。

「格差」を肯定する人の多くは、「格差」をつけないと人は働かないからだ、と言う。確かに働くことは苦役なんだろう。日本国憲法第27条に「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」とある。「義務」というから、働くことは人がいやがることなのだろう。

わたしだって、皿を洗うのが面倒だから、食事のとき、使う皿の数をできるだけ少なくするようにしている。酒やたばこも、それらを買うために、働くことがいやだから、やめた。しかし、もう一歩深く考えてみると、わたしは、やりたいことがあるから、やりたくないことに時間を使いたくないだけである。

ロシアの大作家レフ・トルストイは、貴族のドラ息子だったが、ある日、働くことに目覚め、楽しく働く共同体運動を始めた。この共同体運動は、当時のロシア帝国政府やそれを受け継ぐ社会主義政府によっても弾圧された。これら政府だけでなく、ロシア正教会からも弾圧された。

自分たちのために、自分の思うペースで、楽しく働くことは、権力をもち自由を独占している人たちからみると「悪」なのである。

この事実を知ってから、ロシア正教会がきらいになった。現在、ロシア正教会がウラジーミル・プーチン大統領とつるんでいるのは何も不思議でない。

「格差をつけないと人は働かない」はウソだ、とわたしは思っている。人が働かないのは、現在の社会が、自分のために、自分のよろこびのために働くのではないからだ。他人を自分のために無理やり働かす人たちがいるからだ。

権力をもち自由を独占している人たちが「格差」をどう考えているかをみんなに知ってもらうために、タイラー・コーエンの『大格差』(NTT出版)を紹介したい。この本に日銀副総裁の若田部昌澄が解説をつけている。いまなお「異次元の金融緩和」を主張するアベノミクス派の若田部がどんな考えをもっているかも、この本からわかる。

『大格差』の原題は、“Average Is Over: Powering America Beyond the Age of the Great Stagnation” である。アメリカ社会は、今後、経済的に豊かな層と貧困層に二極化するが、そして、それはそれとして「平穏」な社会になると、著者は予言する。「みんなが平均的な世界は終わった」が“Average Is Over”の意味である。

著者は、左派=リベラルの知識人を偽善的だ、二枚舌だと攻撃し、所得と教育レベルの「格差」を肯定する。

しかるべき「技能」と「姿勢」持っている人はますます豊かになって当然だと言う。「姿勢」は何の訳語が調べてないが、前後の文脈からすると、「個人の野心とモチベーション」のことだろう。「技能」だけでなく「姿勢」を加えたところが、大胆である。トルストイのユートピアの全面否定である。

所得の二極化が進んでも、「低所得層が社会体制に反旗を翻し、富裕層の財産を奪い取る時代が来る」ことはない、と著者は言う。
「アメリカ人が保守化する可能性のほうが高い」「アメリカでいま保守主義の力が最も強いのは、所得水準と教育水準が最も低く、ブルーカラー労働者の割合が最も多く、経済状況が最も厳しい地域だ」「極端な保守主義は、宗教とナショナリズムをこれまで以上に取り込んでいく」とも言う。

所得と資産の二極化が革命と反乱を生まない心理学的理由として著者はつぎのように説明する。

「人々が生々しい怒りをいだくのは、大幅な昇給を得た同僚だったり、自分より20%収入の多い義弟だったりする。要するに、同じ高校に通ったような人たちが高い収入を得ていると、我慢ならないのだ」

これだけ、貧しいものを、心優しきものを、公然とバカにする著作はない。社会の格差を、心悪しき者によって意図的に造られた社会システムだ、と理解する知性すら、貧しいものにはないと著者は言っているのだ。

働くことがきらいでも、強欲でなくとも、争いがきらいでも、みんな、「格差」に怒らなければいけない。怒らないと、権力をもち自由を独占している人たちは、あなたから富と時間を奪うだけでなく、あなたの尊厳を踏みにじる。