猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

東電旧経営陣強制起訴は 量刑はともかく 有罪とすべきだ

2019-09-19 20:21:33 | 原発を考える


東電旧経営陣強制起訴で、9月19日、無罪判決が東京地裁で出た。

福島第1原発事故で、避難者らが起こした各地の民事訴訟では「大津波は予測でき、事故は防げた」とし、東電の過失を認める判決が相次いでいた。刑事責任に関する司法判断は今回が初めてであり、判断を注目していたので、判決結果はがっかりである。

業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電の元会長勝俣恒久(79)、元副社長の武黒一郎(73)、武藤栄(69)の3被告に対し、禁錮5年が求刑されていたが、東京地裁裁判長の永渕健一は無罪を言い渡した。

判決文の詳細の報道がないので、無罪の理由はわからないが、NHKの報道では、裁判長の永渕はつぎのように判決理由を言ったという。

「津波が来る可能性を指摘する意見があることは認識していて、予測できる可能性がまったくなかったとは言いがたい。しかし、原発の運転を停止する義務を課すほど巨大な津波が来ると予測できる可能性があったとは認められない。」
「原発事故の結果は重大で取り返しがつかないことは言うまでもなく、何よりも安全性を最優先し、事故発生の可能性がゼロか限りなくゼロに近くなるように必要な措置を直ちに取ることも社会の選択肢として考えられないわけではない。しかし、当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず、3人が東京電力の取締役という責任を伴う立場にあったからといって刑事責任を負うことにはならない」

東電部長が、旧経営陣、勝俣、武黒、武藤に15.7メートルの津波が来る可能性を報告し、対策を求めたのに対し、判決文は「津波が来る可能性を指摘する意見があることは認識していて、予測できる可能性がまったくなかったとは言いがたい」という責任をあいまいにするような表現になっている。

しかも、津波対策を求めているのに「原発の運転を停止する義務を課すほど巨大な津波」とは意味不明で見当違いである。

つづいて、「当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず」の「絶対的な安全の確保」という表現は、公正性を欠いた表現である。

部下より安全性の危惧が伝えられたとき、「何よりも安全性を最優先し、事故発生の可能性がゼロか限りなくゼロに近くなるように必要な措置を直ちに取ることも社会の選択肢として考えられないわけではない」と判決理由でのべている。しかし、安全性より経済性を重視したため、「重大で取り返しがつかない」原発事故を起こした。であるから、業務上過失致死傷罪にあたるとしておかしくない。

したがって、裁判長の永渕は旧経営陣を有罪として、量刑で情状酌量を行う手があったのではないか。

経営陣が安全性と経済性の選択を迫られ、経済性を選択したため、重大な事故を起こしたとき、その過失責任をまったく問われないとなると、経営者のモラルを崩壊させてしまう。選択肢が明示されたとき、経営者は、その選択結果の責任を過失として問われるべきである。

とくに、今回の裁判で、旧経営陣のだれもが自分から津波対策を棄却したのでないと主張したのは、敗戦後の東京裁判で、誰もが太平洋戦争の開戦を決断せず雰囲気でそうなったと主張したのと同じ無責任の構図である。もし、今回の裁判が裁判員裁判であれば、有罪になったであろう、と私は思う。

「勝俣天皇」とか「御前会議」とか東電内で言われるほど、社内権力を誇っていた旧経営陣を無罪とし、「当時の法令上の規制や国の審査は、絶対的な安全性の確保までを前提としておらず」と言い切る永渕の判決は、「会社の経済的利益のために、社外の個人の不幸を確率的に小さいと主観的に無視する」自由を経営陣に認めたことになる。この文言は、原発推進の政府からの司法の独立性を疑わせるものである。

大阪湾に放射能汚染水を放出、松井一郎市長は正気?

2019-09-19 01:00:46 | 原発を考える


9月17日、維新代表で大阪市長の松井一郎が、大阪湾に福島第1原発の放射能汚染水を放出するかのような発言を記者会見でした。この部分だけが、テレビで流れたので、彼が、なぜ、このような発言をしたのか、私はびっくりした。

瀬戸内海は大阪だけのものではないから、大阪の市長といえども、そんなことを言うのは不謹慎である。

新聞記事を読むと、小泉進次郎環境相の腰が引けている、という批判から、言葉のはずみで飛び出したようである。
松井は、「将来、総理を期待されている人が『所管外だ』とか、そういうことで難しい問題から批判をそらすようなのは非常に残念だ。真正面から受け止めてもらいたい」と述べたという。

では、「真正面から受け止める」とはどういうことなのか。「安全ならば大阪湾に汚染水を流す」ということは、「安全か否かを環境省が調査研究しろ」ということなら、正論と言える。原発推進をおこなっている官庁が、安全性を言うのはおかしい。しかし、松井が、福島第1原発の汚染水の実態を把握しないで、小泉進次郎に「海洋放出」推進の汚れ役をやれというなら、全く無責任である。

経済産業省と東京電力が一緒に行っている、福島第1原発の汚染水問題は不可解な点が多い。

第1に、汚染水がなぜ増えるかという点である。原子炉がメルトダウンしてデブリが原子炉の下に落ちている。デブリを冷やすための水が汚染水となるのか、それとも、相変わらず、そこに地下水が流れ込んでいるからなのか。

地下水がデブリの場所に流れ込んでいるのなら、原子炉建屋を囲んで地下を凍らすという作戦や、地下水の上流で水をくみ上げ海に放水するという作戦が、失敗していることになる。

地下水の流れ込みが遮断できているなら、デブリを冷やすための注水に問題があることになる。熱交換器を途中に置いた循環型の水冷却装置を使えばよい。冷却水の循環で放射線濃度が非常に高くなった時点で、冷却水の入れ替えを行えばよい。ろ過装置を使わずとも、放射性物質を濃縮でき、排出される汚染水の量が減る。

どうも、いまだに、地下水の流入が抑えられていないのではないか。

また、放射線物質トリチウムの量が増え続けるメカニズムがわからない。トリチウムが増え続けるには、中性子線の発生が必要だから、いまだに、デブリが核分裂反応を起こしているのではないか。もし そうなら、デブリを石棺に閉じ込め、水との接触を断つしかない。

民間や大学などの中立的機関の、汚染水の発生量を減らす研究に、環境省が予算をつけていいのではないか。

第2に、放射性物質ろ過装置がどれだけ有効なのか、という分析が明らかにされるべきである。デブリを冷却した水が、ろ過装置で処理した結果、海洋に放出できるほど安全な水ができたのか、という点である。ろ過しても安全基準を超えるから「薄める」という話が、海洋放出の前提になっているのは、おかしい。

福島第1原発敷地内のタンクに保管されているのは、ろ過装置で取り除かれた高濃度汚染水と、ろ過装置から出てきた処理済みの汚染水の両方がある。その総和は、ろ過前の汚染水の量と同じである。ろ過処理済みの汚染水が安全基準を超えているなら、東芝のALPSが無用の長物ということになる。

しかも、昨年、河北新報などから指摘があったように、放射性物質トリチウムだけでなく、他の放射性物質も取りのぞけていなかった。ひとつひとつの核種がだす放射線が基準値を超えていないだけでなく、すべての核種がだす放射線の総量が安全であることの確認も必要ではないか。環境省が公正な機関に委託して、ALPSが機能しているのかどうか検査すべきである。松井一郎には、このことを言ってほしかった。

東芝がこれまで国民をだましてきたことが明るみにでるとまずいから、トリチウムなどが取りのぞけないまま、薄めて海に放出しようとしているのではないか。

第3に、海洋放出以外の方法はないのか、の検討がどれほど真剣に議論されているのかである。安全性の議論を抜きに、コストだけの面から、海洋放出が経済産業省内で決定していて、松井一郎がそれを擁護しているならゲンコツものである。

経済産業省と東電側が提案した汚染水の処理方法は、(1)海洋放出 (2)地中への圧入 (3)大気への拡散 (4)地下埋設である。ライターの牧田寛はさらに(5)大型の恒久タンクを提案している。
(1)と(3)とは「薄める」ことを前提としているから、安全性の面から問題外であろう。

牧田は(2)が地震を誘発し、(4)は受け入れ先がないから非現実的だという。

じつは、アメリカなどで地震を誘発したのは、岩盤に含まれる石油を取り出すために、加圧して「岩盤破壊」を行っているからである。加圧方式でなく、地下深く1000メートルぐらいで、水を貯えることのできる地層がないか、調べ、そこに、汚染水を送りこめばよい。汚染水はその地層で拡散をおこし、いずれ海洋に流れ込むだろうが、十分時間がかかって海洋に達するなら、その間に、放射性物質も減っているだろう。福島第1原発の地下の地層をしらべ、その安全性を研究する価値があると思う。

また、次善の策として、大型の恒久タンクの技術的課題も検討すべきである。地震で壊れない大型タンクが簡単に作れるとも思えないからである。

福島第1原発の放射能汚染水処理の検証は、利害当事者の経済産業省でなく、予算をつけて環境省で進めるのが適切だと思う。

教会をどうしてchurchと言うのか、ホッブズの仮説

2019-09-17 22:36:40 | 誤訳の聖書



トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』は4部からなる。光文社の『リヴァイアサン』は第2部までの翻訳である。第2部までで彼の政治権力についての議論がいちおう完結するので、そういう翻訳があっても良いだろう。

『リヴァイアサン』の第3部と第4部は、教会への批判である。コモンウェルスのなかで教会がコモンウェルスであることは、2つの主権者が存在することとなり、地上のことについては、教会は地上の権力王権にしたがえが、ホッブズの意見である。

第3部第39章で、ホッブズが「教会」という語の意味を問うている。彼は「教会」を「礼拝する場」とするため、“church”の語源をギリシア語にさかのぼっている。中公クラシックスの永井道雄らの訳では、つぎのようにホッブズはいう。

《 エルサレムの神殿は「神の家」、そして祈りの家であった。同様にキリストを拝むためにキリスト教徒が捧げた建物はすべて「キリストの家」である。したがってギリシアの神父たちは、それを「主の家」(Kuriake)と呼び、そこから、私たちの言語ではKyrkeあるいはChurchと呼ばれるにいたった。》

かなり、強引であるが、現在、この仮説をいろいろなところで見かけるので、ここで、私が調べた範囲で論じてみたい。

“Kuriake”はギリシア語の “κυριακή”だと思われるが、これは形容詞で、女性名詞に係る形になる。形容詞としては、「主人の」という意味で、ホッブズの主張が正しいとすれば、「家」を意味する女性名詞 “οἰκία”という語が、省略されたことになる。

Perseus Digital Libraryで調べてみたが、その用法が見つからなかった。Wiktionaryでは、日曜日のことを“κυριακή”というのが見つかった。このばあいは、「日」を意味する女性名詞 “ἡμέρα”が省略されたことになる。

ホッブズの説を支持する人は、具体的に、ギリシア神父とはだれか、どの文献で使用されたかを挙げていない。

新約聖書にはもちろんその用法がない。形容詞“κυριακός”の使用は2例で、1つは『コリント書1』の11章20節の「主の夕食」、もう1つは『ヨハネの黙示録』の1章10節の「主の日」である。

教会のことを英国では“church”、オランダでは“kirke”、ドイツでは“kirche”という。これは、北方ヨーロッパに限定されたことだ。したがって、ゲルマン語に起源があるか、あるいは、カトリックが北方ヨーロッパに伝道するなかで、日曜日にミサへの参加を強要するから俗語で “κυριακή”と呼ばれたのではないか、というのが私の意見である。

それより、“church”の語源を調べているうちに、面白いことを見つけた。

新約聖書の「集会」を意味するギリシア語“ἐκκλησία”の英訳がホッブズの時代に変わったのである。ウィリアム・ティンダルの英訳聖書(1525年)では、 “cogregacion”(会衆)を使っている。これが、欽定訳聖書(1611年)で“church”に置き換わっているのだ。

なお、ティンダルは、“church”を異教の「礼拝所」という意味で、『使徒行伝』の2箇所で訳語に使っている。

ティンダルは、マルティン・ルターの聖書のドイツ語訳に刺激を受け、ラテン語からではなく、ギリシア語・ヘブライ語の聖書を英語に翻訳した人である。イギリス王に最初愛されていたが、王の離婚に反対し、招待された結婚式にも出席しなかったため、火焙りで殺された人である。

ちなみに、ルターは“ἐκκλησία”をドイツ語“Gemeinde”(共同体)と訳しており、いまにいたるまで変わっていない。

ギリシア語“ἐκκλησία”は「集会」であると同時に「同じ信仰をもつ人たちの集まり」という意味である。 “cogregacion”と“Gemeinde”とは 同じ意味である。

日本語聖書は欽定訳聖書の影響を受け、新約聖書の“ἐκκλησία”を「教会」と訳しているが、「会衆」あるいは「共同体」と読み替えて、読むのが、信仰の自由の現代にふさわしいと思う。


アイデンティティは帰属意識か、ブレイディみかこ、差別、DSM-5

2019-09-16 18:46:13 | こころ

ブレイディみかこが『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の14章に「彼は帰属意識の問題、つまり自分のアイデンティティの問題にぶち当たって」と書いていた。この「彼」はブレイディみかこの息子のことである。

この章のテーマは、「彼」が帰属意識を持てないということである。
「日本に行けば『ガイジン』って言われるし、こちらでは『チンク』とか言われるから、僕はどっちにも属さない。だから、僕のほうでもどこかに属している気持ちになれない」

私は、帰属意識を持つ必要がないし、もたないほうが健全だと考える。オリエンタル(東洋人)という帰属意識をもつブレイディみかこより、息子のほうが健全だと思う。

しかし、気にかかったのは、帰属意識とアイデンティティとが同じことかのように使われていることだ。私自身は、そんなことをこれまで思ったこともなかった。

そして、ネットで調べてみると、どうも、彼女だけでなく、“identity”を “roots”や “birth“ と同じような意味で解釈している向きがあるようだ。

私の1980年版のOxford英英辞書で調べてみると、そのような意味は書かれていない。「同一とされること」で“exact likeness”でないといけない。そこから発生して、「自分は何ものかを問うこと」を指す。

アメリカ精神医学会(APA)の診断マニュアルDSM-5に「パーソナリティ機能の要素」(Elements of personality functioning)の項があり、ここで、「アイデンティティ」や「エンパシー」が定義されている。その英文と訳を書き抜いてみよう。
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Identity: Experience of oneself as unique, with clear boundaries between self and others; stability of self-esteem and accuracy of self-appraisal; capacity for, and ability to regulate, a range of emotional experience.
同一性:自己と他者とを明らかに区別し、かけがえのないものとして自分自身を感じふるまうこと;自尊心の安定性および自己評価の正確さ、さまざまな情動体験への適応力およびそれを制御する能力 (私訳)
(ここで “experience”を「感じふるまうこと」と、“as unique”を「かけがえのないものとして」と訳してみた。)
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Empathy: Comprehension and appreciation of others' experiences and motivations; tolerance of differing perspectives; understanding the effects of one's own behavior on others.
共感性:他者の体験および動機の理解と評価;異なる見方の容認、自分自身の行動が他者に及ぼす影響の理解 (私訳)
(ここの“experience”も「感じふるまうこと」の意。“appreciation”は「適切な評価」。)
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identity(アイデンティティ)は上記の意味で、individuality(インディビデュアリティ)とつながる。“individuality”は「個性」と訳されるが、個人を他から区別する特徴のことである。アイデンティティは、肯定的に自分の個性を捉えることであって、他人から差別されることから、生じるものではない。

だから、『ガイジン』でも『チンク』でもないと言う「彼」は健全である。

帰属意識は、徒党を組み、集団で争うことにつながる。

「徒党を組み、集団で対抗する」は「団結」を意味し、ホッブズが言うように、物理的に弱い者が物理的に強い者に打ち勝つために有効である。だからこそ、「団結の自由」という権利が近代社会に生まれたのだと思う。

しかし、帰属意識がなくても、徒党を組み、団結できる。必要なのは目的意識である。目的意識がなくて徒党を組むと、共通の敵を作り、それを攻撃すること自体が目的になる。敵を作ることで組織を維持しようとする。だから、帰属意識とは、やっかいで、人間の弱さ、愚かさとつながっていると私は考える。

旭日旗は あくまで軍国主義、極右のシンボル

2019-09-14 22:18:35 | 日韓関係

昨日のテレビ朝日『大下容子ワイド!スクランブル』で、韓国政府が東京五輪・パラリンピック会場に旭日旗(きょくじつき)の持ち込み禁止を国際オリンピック委員会に訴えたことを取り上げた。驚くことに、番組の論調は一方的に韓国政府を非難するものだった。

この番組直後のツイッターへの書き込みは 次のようなものだった。

「韓国による旭日旗騒ぎも下記の韓国の病気による。韓国は、このように精神病罹患者が異常に多い。こんな国は、自治を認めるべきでない、入院させる(国連による監視・管理下に置く)べき。」(シベール)

「ワイドスクランブル大丈夫か??まともなのは柳澤さんだけか。」(Kazunari Suzuki)

柳澤さんとは元NHK解説委員の柳澤秀夫のことである。番組では、彼を除いて、ツイッターのシベールのような極端な嫌韓発言のオンパレードになった。

旭日旗は日本の国旗ではない。戦前の、帝国陸軍の軍旗、そして、帝国海軍の軍旗である。柳澤の指摘したように、戦後は、日本の極右が旭日旗をシンボルに使っていた。いまでも、極右の街宣車(宣伝カー)が旭日旗をかかげ、軍艦マーチを大音声でかけ、住宅街に侵入し、ターゲットの人に嫌がらせする。

第74代総理大臣になる竹下登は、1987年、極右の街宣車のしつこい追い回しにまいり、自民党幹部の金丸信が広域暴力団の稲川組に仲介を頼み、極右の皇民党と和解した。大金を渡したと言われるが、この件で警察は動かなかった。仲介した7人の自民党幹部の名前は、1992年に別件で訴訟された皇民党幹部の供述調書で明らかになった。

旭日旗は、国旗でなく、多くのひとに嫌な思いを起こさす戦争の旗である。英語では軍旗を戦争の旗(war flag)とよぶ。オリンピック、パラリンピックでは、スポーツ応援だから、国旗の日の丸を振ればよく、わざわざ、軍旗の旭日旗をふる必要はない。その意味で、ナチスの旗ハーケンクロイツを振るのと同じで、軍国主義、極右であることを自己主張していることになる。

旭日旗は自衛隊旗ではない。ところが、海上自衛隊は旭日旗を「自衛艦旗」として使う。昨年10月の韓国での国際観艦式で、韓国政府が自衛艦旗「旭日旗」の掲揚自粛を求めたが、日本政府は海上自衛隊の護衛艦派遣を見送り、韓国政府に喧嘩を売った。戦争を否定する憲法をもつ日本が、自衛艦に戦前の軍旗をかかげる必要があるのか。

私は、日本国内から、旭日旗を「自衛艦旗」として使うことの自粛の声が上がらなかったことをとても残念に思う。

[追記]
まともな人は、みずからを「保守」と言っても、「右翼」とはもうしません。「韓国人」と言っても、「鮮人」とはもうしません。「日の丸」をかかげても、「旭日旗」をふりません。残念ながら、「右翼」みずから、「右翼」が嫌われる行動を起こしているのが現実です。